第33話 黒曜石ジジイ、論文で学会にカチ込み
主流派も黙ってはいなかった。
彼らは反論した。
ネルソンの解釈は誤っている可能性がある。
先住民の叫びは警告ではなく、何らかの禁忌反応かもしれない。
武器を置いたのは、儀礼的な行動かもしれない。
博愛と見るのは早計である。
ここまでは、まあ学問らしい。
だが議論が進むうちに、主流派のほうから奇妙な転換が起きた。
そもそも、博愛は人間性そのものではないのではないか。
博愛は、人間が持ちうる徳性の一つにすぎないのではないか。
徳性。
出た。
便利そうな謎概念。
俺はその言葉を読んだとき、少し笑った。
たぶん、実質同じものを別の棚に置き直しただけだ。
博愛と言うと先住民にも認めざるを得ない。
だから徳性と言い換える。
そして、徳性の有無や程度によって人間性を議論し直す。
概念の荷物を、危険な湿地から少し横へずらしただけに見える。
だが、ずらした先も湿地だった。
なぜなら、それは人間性の根拠を疑うことにつながるからだ。
博愛が人間性の証明ではないなら、何が証明なのか。
徳性とは何か。
徳性を欠く人間は、人間ではないのか。
言葉を持たない乳児はどうなる。
重い障害を持つ者はどうなる。
異文化の倫理を持つ者はどうなる。
敵国人は?
罪人は?
孤立した部族は?
獣と人間の境界は?
主流派は、先住民を人間と認めないために、通説の土台を削り始めた。
すると、足元が崩れた。
革新派も主流派も、次々に論文を出した。
反論。
再反論。
資料批判。
用語の再定義。
現地調査の再検討。
言語とは何か。
警告とは何か。
利他行動とは何か。
人間性とは何か。
もう、ガルダの先住民だけの話ではなかった。
議論は、思想の山脈へ入っていった。
どこが山頂かもわからない。
複数の峰がある。
旗を一本立てても終わらない。
最悪だ。
学問までガルダ化している。




