第7話 祈りの言葉を変える日
聖務庁の小礼拝堂は、白で満たされていた。
白い壁。白い布。白い花。白い蝋燭。祭壇に置かれたリナの棺にも、雪のような布がかけられている。
美しい場所だった。
だからこそ、ノアには息苦しく感じられた。
リナの痩せた頬も、包帯の下の反動傷も、もう祈れないと書かれた日記も、この白さの中では消えてしまいそうだった。
参列者は多くない。
聖務庁の関係者。数人の兵士。リナと同じ訓練を受けた聖女候補たち。そして、英雄管理局の役人が二人。
オルガンの姿はない。だが、ノアには十分だった。王国は見ている。
エリシアは祭壇の前に立っていた。
白い聖衣。祈りの杖。結ばれた銀髪。遠目には、物語の中の聖女のように見える。
だが、ノアだけは知っていた。
彼女の袖の中で、指が震えていることを。
式が始まる。
聖務庁の司祭が、リナの功績を読み上げた。
「聖女候補リナ・メイベルは、北方戦線において、魔王の呪いに侵されながらも祈りを捧げ続け、多くの兵士の命を救いました。その魂は、王国の光として永遠に」
ノアは目を伏せた。
その言葉に、嘘はどれほど混じっているのだろう。
多くの兵士を救った。
これはおそらく本当だ。
魔王の呪いに侵された。
これは違う。
祈りを捧げ続けた。
これも、半分だけ本当だ。
捧げ続けさせられた。
その違いは、弔辞の中では簡単に消される。
やがて、エリシアの番が来た。
聖女見習いによる祈り。
聖務庁の使者が、用意された祈りの紙を彼女に渡す。エリシアはそれを受け取った。
礼拝堂が静まり返る。
ノアは作業室で彼女が書いた白紙を思い出した。何度も書いては消し、また書き直していた。最後まで、自分の言葉で祈ることを恐れていた。
エリシアは紙を開いた。
最初の数行を読む。
「神よ。あなたのもとへ帰る魂を、どうか光の道へお導きください」
それは、聖務庁の定型祈祷文だった。
参列者たちが静かに頭を垂れる。
「聖女候補リナ・メイベルは、その短き生において、多くの者を癒やし、救い、王国のために祈りを捧げました」
声は震えている。
だが、途切れない。
「彼女の働きは尊く、その献身は」
そこで、エリシアの声が止まった。
用意された祈りの次の行には、こう書かれているはずだった。
その犠牲は、王国の光として永遠に讃えられるでしょう。
エリシアはその一文を見つめていた。
長い沈黙。
司祭がわずかに眉を動かす。
英雄管理局の役人が顔を上げる。
ノアは、息を止めた。
エリシアの手が、祈りの紙を下ろした。
「リナは」
その声は、小さかった。
けれど、礼拝堂の白い壁にまっすぐ響いた。
「リナは、犠牲になりたかったわけではありません」
空気が揺れた。
聖務庁の司祭が目を見開く。
エリシアは続けた。
「彼女は、白い服をもらって喜ぶ女の子でした。食堂のパンが硬いと笑い、祈りの言葉を間違えて、髪紐の色で迷う、普通の女の子でした」
ノアは棺を見た。
白い布の下で、リナは眠っている。
「彼女は多くの人を救いました。けれど、それは彼女が痛みを感じなかったからではありません。怖くなかったからでも、疲れなかったからでもありません」
エリシアの声が震える。
「手が痛いと、日記に書いていました。眠いと書いていました。水を飲むと吐くと書いていました」
参列していた聖女候補の一人が、口元を押さえた。
「そして最後に、こう書いていました」
エリシアは目を閉じた。
「もう祈れない、と」
礼拝堂は静まり返った。
誰も咳払いすらしない。
エリシアは祈りの杖を胸に抱いた。
「だから私は、彼女を尊い犠牲としてだけ祈りたくありません。王国の光としてだけ、讃えたくありません」
司祭が一歩動く。
「エリシア」
制止の声。
だが、彼女は止まらなかった。
「リナ。あなたは、よく頑張りました」
その言葉は、祈りというより、友人への語りかけだった。
「もう祈らなくていいです。もう誰かを救わなくていいです。もう、あなたが休んだから誰かが死ぬなんて、思わなくていいです」
エリシアの頬に涙が流れた。
「どうか、今度こそ眠れますように。痛みのない場所で、食堂の硬いパンの文句を言って、髪紐の色で迷って、ただのリナとして笑えますように」
礼拝堂の後方で、誰かが泣き出した。
聖女候補の少女だった。隣の少女も涙を拭っている。兵士の一人が、深く頭を下げた。
ノアは気づいた。
これは、聖務庁が望んだ感動ではない。
殉教者を讃える涙ではない。
リナが一人の少女だったことを、初めて知った者たちの涙だった。
祈りが終わると、礼拝堂には長い沈黙が残った。
司祭は厳しい顔をしていた。英雄管理局の役人は、何かを記録している。エリシアの立場は悪くなるだろう。
それでも、リナの棺の前に立つ彼女の表情には、後悔はなかった。
葬儀が終わったあと、ノアは礼拝堂の外でエリシアを待った。
外は曇っていたが、雨は降っていない。
エリシアは聖務庁の使者に厳しく何かを言われていた。彼女は黙って頭を下げている。反論はしない。ただ、折れてもいなかった。
やがて使者が去ると、エリシアはノアのもとへ来た。
「叱られました」
「でしょうね」
「しばらく、正式な祈祷の場には立たせてもらえないかもしれません」
「後悔していますか」
エリシアは少し考え、首を振った。
「怖いです。でも、後悔はしていません」
彼女は礼拝堂の扉を振り返る。
「リナは、聖女候補として立派に死んだのだと、私は思い込もうとしていました。そう思えば、悲しみが少しは綺麗になるから」
「綺麗な悲しみのほうが、受け入れやすいですから」
「でも、リナは綺麗に死んだわけではありませんでした」
エリシアの声は静かだった。
「痛くて、苦しくて、休みたくて、それでも休めなくて……最後に、もう祈れないと書いた。そこから目を逸らして祈るのは、リナのためではありません」
ノアは頷いた。
「あなたの祈りは、届いたと思います」
「そうでしょうか」
「少なくとも、聖務庁の祈りよりは」
エリシアは少しだけ笑った。泣いた後の、疲れた笑みだった。
その時、礼拝堂の奥から若い兵士が出てきた。
彼は周囲を気にしながら、ノアとエリシアに近づいた。北方戦線の徽章をつけている。リナに治療された兵士の一人だろう。
「あの」
兵士は小さな声で言った。
「リナ様のことですが」
エリシアが顔を上げる。
「何か、ご存じなのですか」
兵士は唇を噛んだ。
「俺は、あの治療所にいました。リナ様は、何度も休ませてくれと言っていました。でも、聖務庁の監督官が……あと一人、あと一人だけと」
ノアは息を詰めた。
兵士は震える声で続ける。
「最後の日、リナ様は立っていられませんでした。それでも、運ばれてきた負傷兵に手を伸ばして……そのあと倒れました。呪いなんて、俺は見ていません」
エリシアの顔が青ざめる。
「その監督官の名前は」
兵士は答えかけて、背後を見た。聖務庁の使者たちがまだ近くにいる。
彼は懐から小さな紙片を取り出し、ノアに押しつけた。
「すみません。俺は、これ以上は」
そう言って、逃げるように去っていく。
ノアは紙片を開いた。
そこには、乱れた文字で一つの名前が書かれていた。
監督官マルク・セイン。
聖務庁所属。
英雄管理局との連絡役。
ノアは眉を寄せた。
聖務庁だけではない。
ここにもまた、英雄管理局の影がある。
エリシアもその名を見ていた。
「マルク監督官……私も知っています。聖女候補の戦地派遣を管理している人です」
「会えますか」
「難しいと思います。でも、記録なら聖務庁に残っているはずです。リナが何人治療したのか、どれだけ休んだのか、誰が指示を出したのか」
エリシアの目に、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
悲しみではない。
怒りでもない。
それは、知ろうとする意志だった。
「ノアさん」
「はい」
「私、リナの死をこれで終わりにしたくありません」
ノアは紙片を折り、懐に入れた。
「僕もです」
二人は礼拝堂を振り返った。
白い建物の中で、リナの棺はもう閉じられている。葬儀は終わった。聖務庁は、彼女を殉教者として記録するだろう。
だが、ノアの台帳には別の記録が残る。
魔王の呪いではない。
治癒魔法の過剰使用。
生命力の枯渇。
聖務庁監督官の指示。
英雄管理局との連絡。
そして最後の一文。
彼女の祈りは、届かなかった。
なぜなら、誰も彼女自身を救おうとしなかったからだ。
その夜、レクター葬儀社に戻ったノアは、リナの葬儀記録を書いた。
聖女候補リナ・メイベル。
公式死因、魔王の呪い。
確認事項。
反動傷。
魔力枯渇。
日記の記述。
証言、北方治療所の兵士。
監督官マルク・セイン。
ノアは羽ペンを止める。
勇者の死因が嘘だった。
聖女の死因も嘘だった。
ならば、王国が美しく語る死のうち、どれだけが本当なのだろう。
机の上には、カイルの記録とリナの記録が並んでいる。
勇者。
聖女。
王国が最も美しく飾る二つの死。
そのどちらも、真実から目を逸らされていた。
ノアは台帳を閉じようとして、ふと気づいた。
リナの日記の最後のページに、小さな折り目があった。見落としていた。紙の端が二重になっている。
慎重に開くと、そこにもう一行、薄い文字が隠れていた。
リナの最後の筆跡。
エリシアさん、ごめんなさい。
私、聖女になれませんでした。
ノアはその一文をしばらく見つめた。
聖女になれなかったのではない。
聖女にならされる前に、少女のまま死んだのだ。
ノアは日記を閉じ、灯りを落とした。
外では、鐘楼の鐘が夜を告げている。
勇者の棺に続いて届いた聖女候補の棺は、王国の別の嘘を教えてくれた。
死者は語らない。
それでも、遺体は黙っていない。
包帯だらけの手も、薄い呪いの痕も、震える日記の文字も、すべてが何かを訴えていた。
ノアは暗い作業室で、誰もいない作業台へ向かって一礼した。
「おやすみなさい、リナ様」
もう祈れないと書いた少女に、今さら祈りは届かないかもしれない。
それでも、ノアは思う。
せめて記録だけは、届く場所まで運ばなければならない。
嘘ではなく、彼女の本当の死を。




