第6話 奇跡は命を削っていた
リナの遺品は、驚くほど少なかった。
小さな祈祷書。
聖務庁支給の白い髪紐。
割れた水晶の護符。
そして、布表紙の日記。
それだけだった。
勇者カイルの遺品には、剣帯や外套、守り人形があった。彼が戦場で何かを見て、何かを選ぼうとした痕跡があった。
リナの遺品には、彼女自身の時間がほとんど残っていない。
まるで、聖女候補になった瞬間から、少女としての持ち物を持つことを許されなかったかのようだった。
ノアは日記を開く前に、エリシアへ視線を向けた。
「読んでも?」
エリシアは棺のそばに座ったまま、しばらく返事をしなかった。
「本当は、読まれたくないと思います」
「では」
「でも……読まれないまま、殉教者にされるのは、もっと嫌だと思います」
ノアは頷き、日記を開いた。
最初のページには、丸い文字でこう書かれていた。
今日、聖女候補の白い服をもらった。
エリシアさんが似合うと言ってくれた。
嬉しかった。
エリシアが唇を噛んだ。
ページを進める。
最初の頃の日記は明るかった。訓練のこと。食堂のパンが硬かったこと。祈りの発音を何度も間違えたこと。エリシアに髪を結んでもらったこと。
だが、北方戦線へ送られてから、文字は少しずつ乱れていく。
今日、兵士さんを十二人治した。
先生に褒められた。
でも手が痛い。
明日はもっと頑張る。
次のページ。
今日は二十人。
一人だけ間に合わなかった。
私のせいかもしれない。
先生は、泣く時間があるなら祈りなさいと言った。
さらに次。
手首から血が出た。
でも、まだ治せる。
私が休むと、誰かが死ぬ。
エリシアが顔を覆った。
「やめて」
ノアは手を止めた。
「読みます」
彼女は震える声で言った。
「やめてと言ったら、また誰も聞かなかったことになる。読みます」
ノアは静かに頷き、続きを読んだ。
もう日付は乱れていた。文字もかすれている。
眠い。
祈ると、胸が痛い。
水を飲むと吐く。
先生が、もう少しだけと言った。
もう少しだけが、毎日続く。
最後のページに近づくほど、文字は小さくなった。
治した兵士さんが、ありがとうと言った。
嬉しかった。
でも、そのあと別の人が運ばれてきた。
ありがとうが終わる前に、次の悲鳴が来る。
ノアは喉の奥が詰まるのを感じた。
死者の日記を読む時、葬儀師は泣いてはいけないと父は言っていた。泣くなという意味ではない。泣くより先に、受け止めなければならないという意味だ。
最後のページには、たった一行だけが書かれていた。
もう祈れない。
エリシアの肩が震えた。
「リナは……いつも笑っていました」
彼女は棺の中の少女を見る。
「訓練で失敗しても、食事が少なくても、先生に叱られても。私が大丈夫かと聞くと、大丈夫ですって。私、信じていました。笑っていたから」
「笑うことしかできなかったのかもしれません」
ノアの言葉に、エリシアは目を閉じた。
「私たちは、聖女候補として教えられます。奇跡は神から与えられた光であり、惜しまず使うべきものだと。誰かを救うために命を削ることは尊いのだと」
「命を削ることは、本人が選んだ時だけ尊いのではありませんか」
エリシアは返事をしなかった。
その沈黙の中で、ミレイが淡々とリナの検査結果を書き留めていた。
「死因は、魔力枯渇。生命力消耗。栄養不足。睡眠不足。反動傷の悪化。呪いの痕跡は微量。致命因子じゃない」
「聖務庁は、それを分かっていて魔王の呪いにしたのでしょうか」
ノアが尋ねると、ミレイは羽ペンを止めた。
「分からない。でも、この状態を見て呪いだけが死因だと言うなら、見た人間は遺体を見てないか、見たくなかったかのどっちかだね」
見たくなかった。
ノアはその言葉を胸の中で繰り返した。
勇者カイルの背中の傷も、見たくなければ存在しないことにできる。リナの手首の反動傷も、呪いという言葉を貼れば隠せる。
王国の物語は、見たくないものを覆う布なのかもしれない。
その日の午後、聖務庁から使者が来た。
黒ではなく白の制服。胸には祈りの紋章。英雄管理局より柔らかい物腰だったが、言葉の硬さは同じだった。
「リナ・メイベルの葬儀は、明日、聖務庁小礼拝堂にて行います。弔いの祈りはこちらで用意しました」
使者は巻かれた紙をエリシアに渡した。
「エリシア・ヴェイン。あなたが読みなさい」
エリシアは紙を受け取った。
「私が、ですか」
「リナとは訓練をともにしたのでしょう。民衆は、同じ聖女候補の祈りに心を打たれます」
民衆は、心を打たれる。
その言い方が、ノアにはひどく冷たく聞こえた。
使者が帰ったあと、エリシアは祈りの文を開いた。
そこには、リナの死が美しく整えられていた。
聖女候補リナ・メイベルは、魔王の呪いに侵されながらも、最後まで祈りをやめなかった。
その尊い犠牲により、多くの兵士が救われた。
彼女の魂は神の御許へ導かれ、王国の光となる。
エリシアの指が震える。
「最後まで祈りをやめなかった」
ノアは言った。
「日記には、もう祈れないとありました」
「尊い犠牲」
エリシアの声がかすれる。
「リナは、犠牲になりたかったのでしょうか」
誰も答えられない。
聖務庁の祈りは美しい。
だが、その美しさはリナの疲れた手を隠している。
彼女が眠れなかった夜を、吐き気に耐えた朝を、もう祈れないと書いた震える指を消している。
エリシアは紙を握りしめた。
「私は、これを読まなければならないのですか」
ノアはすぐには答えなかった。
カイルの国葬で、彼は弔辞に一文だけ自分の言葉を加えた。だが、今度はエリシアの番だ。彼女が何を祈るのかは、ノアが決めていいことではない。
「祈りは、誰のためのものですか」
ノアは静かに尋ねた。
エリシアは顔を上げる。
「王国のためですか。聖務庁のためですか。参列者を感動させるためですか」
「違います」
彼女は小さく首を振った。
「死者のためです」
「では、リナ様のために祈る言葉を選ぶべきです」
エリシアは棺の中のリナを見た。
包帯を外した手には、反動傷が残っている。白く細い指。治癒魔法で多くの命を救った手。誰にも止めてもらえなかった手。
「でも、私が違う言葉を祈れば、聖務庁に背くことになります」
「はい」
「私はまだ聖女ではありません。立場も力もありません」
「はい」
「怖いです」
ノアは頷いた。
「怖くて当然です」
エリシアの目に涙が浮かぶ。
「リナも怖かったのでしょうか」
「日記には、怖いとは書いていませんでした」
「では」
「でも、もう祈れないと書いていました」
それは、怖いよりも深い言葉かもしれない。
エリシアは祈りの紙を見つめ続けた。
長い時間が過ぎた。
やがて彼女は、祈りの紙を丁寧に畳んだ。そして、懐から小さな白紙を取り出す。
「ノアさん」
「はい」
「リナの日記を、もう一度読ませてください」
ノアは日記を渡した。
エリシアはそれを両手で受け取り、棺のそばに座る。まるで、リナと並んで訓練室に座っているかのように。
彼女はページを開き、小さな声で読み始めた。
嬉しかった。
手が痛い。
もっと頑張る。
泣く時間があるなら祈りなさい。
私が休むと、誰かが死ぬ。
もう祈れない。
一つひとつの言葉が、作業室に落ちていく。
エリシアは白紙に羽ペンを置いた。
聖務庁の祈りではない。
王国のための言葉でもない。
民衆を泣かせるための言葉でもない。
リナ・メイベルという一人の少女に届く言葉を、彼女は探し始めた。
その横顔を見ながら、ノアは思った。
勇者の棺も、聖女の棺も、同じだ。
死者は何も語れない。
だから生者が言葉を選ぶ。
その言葉が嘘なら、死者は二度死ぬ。




