第5話 聖女候補の棺
勇者カイルの国葬から二日後、王都にはまだ花の匂いが残っていた。
鐘楼広場へ続く道には、白い花びらが踏み潰され、石畳に薄く張りついている。雨に濡れた花はもう香りを失い、ところどころ茶色く変色していた。
英雄は、弔われたあとも美しくは残らない。
ノアは朝早くから、レクター葬儀社の作業室を整えていた。カイルの棺を送り出した作業台には、新しい白布が敷かれている。銀の鋏、香油、清拭布、祈祷用の小瓶。道具は父に教えられた順番通りに並べた。
だが、台帳の一ページだけは閉じられずにいる。
勇者カイル・アーヴィング。
公式死因、魔王の炎による戦死。
その下に、ノアが書き足した数行。
背部刺創。
死後焼損。
聖騎士団紋章布。
魔王領の守り人形。
彼は、背中から死んでいた。
ノアはその文字を指先でなぞった。
国葬は終わった。
民衆は泣き、花を捧げ、勇者の物語を胸に帰っていった。
けれど、カイルがなぜ背中から刺されたのか、誰が胸を焼いたのか、何一つ明らかになっていない。
葬儀は、真相を終わらせる場所ではない。
むしろ、始まりになることがある。
玄関の鈴が鳴ったのは、昼前だった。
扉を開けると、灰色の制服を着た英雄管理局の使者が立っていた。背後には、小さな棺を乗せた馬車がある。
勇者の棺ほど豪華ではない。だが、白い布と聖務庁の紋章がかけられている。
「レクター葬儀社だな」
「はい」
「聖女候補リナ・メイベルの遺体だ。聖務庁からの依頼により、葬儀前の保全と清拭を行え」
ノアは一瞬、言葉を失った。
聖女候補。
まだ正式な聖女ではないが、癒やしの奇跡を持つ少女たちの総称だ。王国では勇者と同じく、民衆の希望として扱われている。
「死因は」
使者は書類を差し出した。
「魔王の呪い。北方戦線の後方治療所にて、負傷兵の治療中に呪詛を受け死亡。聖務庁は彼女を殉教者として弔う」
また、魔王。
また、用意された物語。
ノアは書類を受け取った。
「聖務庁の方は」
「あとで祈り手が来る。聖女見習いのエリシア・ヴェインだ」
エリシア。
その名を聞いた時、ノアの胸に小さな不安が生まれた。
カイルの葬儀で、彼女は王国の祈りに一文だけ自分の言葉を加えた。英雄管理局がそれを見逃したとは思えない。今度の葬儀に彼女を送るのは、偶然なのか。それとも監視なのか。
棺が作業室へ運び込まれた。
勇者の棺と比べると、驚くほど軽かった。
中に眠っていたのは、少女だった。
年は十五、六ほど。淡い栗色の髪が頬に貼りつき、細い首元には聖務庁の白い布が巻かれている。顔は血の気を失い、唇は青白い。
痩せていた。
戦場で亡くなったにしても、あまりに痩せている。
ノアは棺に向かって一礼した。
「お帰りなさいませ、リナ様」
胸元の布を整えようとして、ノアは手を止めた。
聖女候補リナの手は、包帯だらけだった。指先まで白く巻かれ、ところどころ血が滲んでいる。戦場で怪我をしたのだろうか。
だが、傷の位置が奇妙だった。
手のひら、手首、前腕。
外から受けた傷というより、内側から裂けたような痕跡。
ノアは書類を確認する。
魔王の呪い。
全身衰弱。
魂魄汚染。
聖務庁認定。
魂魄汚染という言葉は便利だ。見えないものに原因を押しつける時、よく使われる。
作業室の扉が叩かれた。
「ノアさん」
入ってきたのはエリシアだった。
白い聖衣をまとい、胸には聖務庁の徽章。だが、国葬の時よりも顔色が悪い。
彼女は棺を見るなり、息を止めた。
「リナ……」
「お知り合いでしたか」
エリシアはゆっくり頷いた。
「同じ聖女候補の訓練を受けていました。私より二つ下で、いつも笑っていて……治癒魔法が得意で」
声が震える。
「北方へ送られたのは知っていました。でも、まさか」
ノアは棺のそばを少し空けた。
エリシアはリナの顔を覗き込む。祈りの形に指を組もうとして、途中で止まった。包帯だらけの手を見たからだ。
「こんなに、痩せて」
「戦場では、過酷だったのでしょう」
「でも、リナはまだ正式な聖女ではありません。後方支援のはずです。前線に出ることはないと」
「書類では、後方治療所で呪いを受けたと」
「魔王の呪い……」
エリシアはその言葉を反復した。信じようとしている声だった。信じなければ、自分の中の何かが壊れるから。
ノアは慎重に尋ねた。
「魔王の呪いを受けた遺体には、どのような痕跡が残りますか」
「黒い斑紋が、胸や喉に出ると教えられています。祈りを拒むように、皮膚が硬くなって……魔力の淀みが」
彼女はリナの首元の布に手を伸ばした。
「失礼します、リナ」
布をほどく。
首元には、たしかに黒い斑点のようなものがいくつかあった。
だが、エリシアの表情が変わる。
「……薄い」
「薄い?」
「呪いなら、もっと深く広がるはずです。これは、まるであとから浮かんだ痣のような」
ノアは手首の包帯に目を落とした。
「包帯を外しても?」
エリシアは迷った後、頷いた。
ノアは一本ずつ丁寧に包帯を解いていく。死者の皮膚を傷つけないよう、乾いた血を湿らせながら。
現れた手首は、痛々しかった。
傷がある。
だが剣傷ではない。魔物に噛まれた跡でもない。皮膚の内側から裂け、血管が焼き切れたような細かい破れ。
エリシアの顔から血の気が引いた。
「これは……治癒魔法の、反動傷」
「反動傷?」
「治癒魔法は、無から命を作るわけではありません。術者の魔力と生命力を使って、相手の回復を早めます。限界を超えて使えば、術者自身の体が壊れます」
ノアはリナの細い腕を見た。
「では、これは呪いではなく」
「まだ分かりません」
エリシアは即座に言った。
しかし、その声には自信がなかった。
「魔王の呪いによって、治癒魔法が暴走した可能性もあります。聖務庁がそう判断したのなら」
その時、裏口が開いた。
「聖務庁の判断って、便利な言葉だよね」
ミレイだった。外套を肩にかけ、いつものように軽い口調で入ってくる。だが、棺の中のリナを見ると、口元を引き結んだ。
「若いね」
「見てほしい」
ノアが言うと、ミレイは手袋をはめた。
「また公式死因と違うやつ?」
「まだ分からない」
「それ、前回も聞いた」
ミレイはリナの手首、喉、胸元を順に確認する。水晶板をかざし、魔力の残滓を調べる。さらに小瓶の中の透明な液を綿に含ませ、黒い斑点の一つに触れた。
斑点はにじむように薄れた。
エリシアが息を呑む。
「呪いの斑紋なら、こんな反応はしない」
ミレイの声が低くなる。
「これは呪いじゃない。少なくとも、死因になるほどの呪詛は残ってない」
「では、死因は」
ミレイはリナの手を見た。
「治癒魔法の使いすぎ。極度の魔力枯渇と生命力の消耗。簡単に言えば、治しすぎて死んだ」
エリシアが一歩下がった。
「そんな……」
「この子、何人治したの?」
誰も答えられない。
書類には書かれていない。
何人治したのか。
何時間祈り続けたのか。
いつ休んだのか。
誰が止めたのか。
それは、聖女の美談には不要な数字なのだろう。
エリシアはリナの包帯だらけの手を見つめていた。
「リナは、戦場に行くのを怖がっていました」
ぽつりと、彼女が言った。
「でも、聖務庁の先生は言いました。あなたの奇跡を待っている人がいる。あなたが休めば、誰かが死ぬ、と」
ノアは、カイルの言葉を思い出した。
自分が逃げれば、誰かが代わりに死ぬ。
勇者にも、聖女にも、同じ鎖がかけられている。
エリシアの指が震えた。
「リナは、呪いで死んだのではないのですか」
ミレイは答えなかった。
ノアも答えなかった。
答えは、棺の中にあった。
リナの痩せた頬。
包帯だらけの手。
薄すぎる呪いの痕跡。
使い尽くされた命。
聖女候補リナ・メイベルは、魔王に殺されたのではない。
誰かを救い続けた末に、救われないまま死んだのだ。




