第4話 弔うべきは、嘘ではない
聖騎士団副団長ベイル・ラドナーは、葬儀社へ来なかった。
ノアが葬儀準備の確認という名目で面会を求めても、返事は「多忙につき不可」。代わりに届いたのは、英雄管理局を通した定型文だった。
勇者カイルは魔王の炎に倒れた。
聖騎士団はその勇気を深く讃える。
葬儀では王国の用意した弔辞を尊重する。
それだけだった。
だが、沈黙もまた証言になる。
ノアは、カイルの装備品を確認した。剣帯、破れた外套、焦げ跡のある胸当て、泥のついた靴。
その中に、一つだけ奇妙なものがあった。
小さな木彫りの人形。
子どもが作ったような粗い作りで、羽のある獣をかたどっている。勇者の持ち物にしては不釣り合いだった。
「魔王領の子どもが作る守り人形です」
それを見たエリシアが言った。
「知っているのですか」
「聖務庁の資料で見たことがあります。魔王領では、子どもが旅人に渡すそうです。帰ってきてほしい相手に」
ノアは人形を手のひらに載せた。
カイルは、魔王領で誰かにこれを渡された。
魔王を討つために向かった勇者が、魔王領の子どもから、帰還を願う人形を受け取った。
「彼は、何を見たのでしょうね」
エリシアの声は沈んでいた。
調査は断片ばかりだった。
だが、断片は少しずつ形を結ぶ。
カイルは魔王領で、王国が語る「邪悪な魔物」だけを見たのではない。そこに暮らす子どもたちを見た。怯え、逃げ、家族を失う者たちを見た。
そして、何かをしようとした。
命令と違う何かを。
聖騎士団の布切れ。
背中の刺し傷。
死後につけられた胸の火傷。
魔王領の子どもが渡した守り人形。
カイルは、敵を守ろうとしたのではないか。
魔王領の子どもたちを逃がそうとして、味方に背中を刺されたのではないか。
ノアには、証明しきれなかった。
聖騎士団は口を閉ざし、英雄管理局は通達を出し、王国は国葬の準備を進めている。葬儀師一人が掴んだ証拠だけでは、王国の物語を覆すには足りない。
それでも。
棺の中のカイルには、嘘を被せたまま眠らせることはできなかった。
国葬の日、王都の鐘楼広場は人で埋まっていた。
雨は上がったが、空はまだ重い雲に覆われている。広場の中央には白い祭壇が組まれ、その上に勇者カイルの棺が置かれた。
棺の胸元には、英雄管理局の指示通り、焦げ跡が見えるよう布が整えられていた。
民衆はそれを見て囁く。
「あれが魔王の炎か」
「なんて痛ましい」
「勇者様は、正面から魔王に立ち向かわれたんだ」
ノアは棺の傍らに立っていた。
手には、英雄管理局が用意した弔辞。
そこには、完璧な英雄の物語が書かれていた。
勇者カイルは恐れを知らなかった。
彼は魔王を前に一歩も引かなかった。
彼は仲間を逃がすため、胸に炎を受けた。
その死は王国の誇りであり、永遠に語り継がれる。
ノアは、紙を見つめた。
恐れを知らなかった。
違う。
エリシアは言っていた。カイルは怖いと言っていた。
一歩も引かなかった。
本当にそうだろうか。
彼はもしかすると、命令からは引いたのかもしれない。王国が倒せと言った相手を、守ろうとしたのかもしれない。
胸に炎を受けた。
違う。
火傷は死後につけられた。
王国の誇り。
では、カイル自身の心はどこにある。
祭壇の横には、エリシアが立っていた。白い聖衣をまとい、祈りの準備をしている。彼女の顔は緊張で強張っていたが、視線はまっすぐノアに向けられていた。
その少し後ろに、英雄管理局の局長オルガン・レイスがいた。
初めて見る男だった。
灰色の髪を後ろで束ね、静かな目をしている。年齢は四十代半ばほど。王国の中枢にいる人間らしい落ち着きと、冷たい理性をまとっていた。
彼はノアを見ていた。
ただ見ているだけなのに、それは警告のようだった。
儀式が始まる。
鐘が鳴り、民衆が静まる。
英雄管理局の司会官が高らかに宣言した。
「これより、北方魔王討伐にて命を捧げた勇者カイル・アーヴィングの国葬を執り行う」
祈りが捧げられ、花が置かれ、楽隊が沈痛な旋律を奏でる。
やがて、ノアの番が来た。
葬儀師による弔辞。
本来なら、遺体を整えた者が、死者を送り出す最後の言葉を読む。
ノアは祭壇の前へ進んだ。
広場中の視線が集まる。
手の中の紙が、わずかに湿っている。雨ではない。自分の汗だった。
ノアは息を吸った。
そして、読み始めた。
「勇者カイル・アーヴィング。あなたは若くして聖剣に選ばれ、王国のため、北方の地へ赴かれました」
用意された文面通り。
「あなたは仲間を守り、民を守り、迫りくる災厄の前に立ちました」
民衆がすすり泣く声が聞こえる。
「あなたの勇気は、王国の記憶に深く刻まれるでしょう」
オルガンの視線を感じる。
ノアは紙をめくった。
次の行には、こう書かれていた。
あなたは魔王の炎を胸に受け、なおも退かず、英雄としてその生を終えました。
ノアは、その一文を読まなかった。
広場に、ほんのわずかな間が落ちた。
ノアは顔を上げた。
棺の中で眠るカイルの顔は、薄い白布の奥にある。もう何も語らない。言い訳もしない。抗議もしない。
だから、生きている者が勝手に物語を被せる。
ノアはそれが、どうしても許せなかった。
彼は声を落とし、けれど広場に届くように言った。
「彼は、恐れを知らなかったのではありません」
民衆がざわめいた。
英雄管理局の司会官が顔を上げる。
オルガンの目が細くなった。
ノアは続けた。
「彼は恐れていました。死を恐れ、戦いを恐れ、それでも自分が逃げれば誰かが代わりに死ぬと知って、戦場へ向かいました」
エリシアが目を見開く。
これは、弔辞にはない言葉だった。
「彼が最期に何を見たのか、私はすべてを知っているわけではありません。ですが、棺の中には、彼が最後まで手放さなかったものがありました」
ノアは、祭壇の小さな皿に置いた木彫りの人形を見た。
魔王領の子どもが作った、帰還を願う守り人形。
「それは、敵地の子どもが渡した小さな守り人形でした」
広場のざわめきが大きくなる。
「勇者カイルは、命令のためだけに死んだのではありません。王国の物語のためだけに死んだのでもありません」
司会官が近づこうとした。
だが、エリシアが一歩前へ出た。祈りの杖を胸に抱き、司会官の動きを遮るように立つ。
ノアは最後の一文を、自分の言葉で告げた。
「彼は、守れと命じられたものではなく、自分が守りたいと思った命のために死にました」
風が吹いた。
祭壇に置かれた白い花が揺れる。
誰もすぐには声を出さなかった。
それは王国を告発する言葉ではなかった。聖騎士団の罪を暴く言葉でも、英雄管理局の嘘を叫ぶ言葉でもない。
けれど、完璧に整えられた英雄譚の表面に、小さな傷を入れるには十分だった。
葬儀はそのまま進んだ。
エリシアは震える声で祈りを捧げた。王国が用意した祈りではあったが、その最後に、彼女も一言だけ加えた。
「どうか、彼が本当に守りたかったもののもとへ帰れますように」
ノアは目を閉じた。
カイルの死因を、まだ公にできたわけではない。背中の刺し傷も、聖騎士団の布切れも、胸の偽装も、広場に示すことはできなかった。
それでも、今日の葬儀で一つだけ守れたものがある。
カイルは、恐れを知らない英雄としてだけ葬られなかった。
怖がりながらも、誰かを守ろうとした青年として送られた。
儀式が終わり、民衆が少しずつ広場を離れていく。
ノアが棺のそばで片づけをしていると、背後から静かな声がした。
「君が、ノア・レクターか」
振り返ると、英雄管理局局長オルガン・レイスが立っていた。
近くで見ると、その目は冷たいというより、深い水底のように感情が読めなかった。
「はい」
「良い声だった」
「ありがとうございます」
「だが、弔辞とは、死者のためだけにあるものではない」
ノアは黙っていた。
オルガンは、祭壇の上の棺を見た。
「民衆は物語を必要としている。勇者が勇敢に死んだという物語を。そうでなければ、次の災厄に立ち向かう力を失う」
「死者の真実よりも、ですか」
「真実は、時に生者を壊す」
オルガンは穏やかに言った。
「君の父も、それを理解できなかった」
ノアの胸が凍った。
父。
オルガンは、父を知っている。
「父を、ご存じなのですか」
「優秀な葬儀師だった。死者に誠実すぎた」
それは褒め言葉ではなかった。
ノアは拳を握る。
「父は病で亡くなりました」
「そう記録されている」
オルガンはわずかに微笑んだ。
「記録は大切だ。人は記録された形で、後世に残る」
ノアは、カイルの胸の火傷を思い出した。
記録された形。
魔王の炎で死んだ勇者。
公式弔辞に刻まれた英雄。
背中の刺し傷は、記録されない。
オルガンはノアの横を通り過ぎる時、低く言った。
「勇者の棺を開けるのは構わない。だが、王国の棺まで開けようとするな」
それだけ告げると、彼は広場を去っていった。
ノアはしばらく動けなかった。
祭壇の上で、カイルの棺は静かに閉じられている。
勇者は死んだ。
葬儀は終わった。
けれど、何かが始まってしまったのだと、ノアには分かった。
その夜、レクター葬儀社に戻ると、扉の前に一輪の白い花が置かれていた。
花の下には、小さな紙片が挟まれている。
ノアはそれを拾い上げた。
そこには、震えるような筆跡で一言だけ書かれていた。
勇者様を、嘘だけにしないでくれてありがとう。
ノアは紙片を胸に押し当てた。
すべてを暴くには、まだ遠い。
カイルを殺した者も、胸を焼いた者も、王国が何を隠しているのかも、分からないことばかりだ。
だが、確かに一人は届いていた。
英雄ではなく、人間としてのカイルに。
ノアは作業室へ入り、父の使っていた机の前に立った。
壁には、父の古い白手袋が今も吊るされている。
「父さん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
けれど、オルガンの言葉が耳に残っていた。
君の父も、それを理解できなかった。
父は何を知ったのか。
何を弔おうとして、何を開けてしまったのか。
ノアは机の引き出しを開けた。
そこには、父が残した古い葬儀台帳が並んでいる。
勇者カイルの死は、終わりではなかった。
これは、最初の棺だ。
ノアは新しいページを開き、羽ペンを取った。
葬儀記録。
勇者カイル・アーヴィング。
公式死因、魔王の炎による戦死。
そこで一度、手が止まる。
ノアは少し考え、別の行を加えた。
確認事項。
背部刺創。
死後焼損。
聖騎士団紋章布。
魔王領の守り人形。
そして最後に、こう記した。
彼は、背中から死んでいた。
ノアはインクが乾くのを待ち、台帳を閉じた。
外では、また雨が降り始めていた。
王都の雨は、死者にやさしくない。
だからこそ、せめて葬儀師だけは、死者にやさしくあらねばならない。
ノアは灯りを消す前に、棺の置かれていた作業台へ向かって一礼した。
「おやすみなさい、カイル様」
静かな夜だった。
けれどその夜から、レクター葬儀社には、次々と奇妙な棺が届くことになる。
勇者の棺。
聖女の棺。
裏切り者の棺。
死んだことにされた者の、空の棺。
そしてそのどれもが、王国の語る物語とは違う死因を抱えていた。
最初の勇者は、背中から死んでいた。
ならば次の死者は、何を隠されているのだろう。
ノアはまだ知らない。
勇者たちの棺を開けることは、やがて王国そのものの棺を開けることになるのだと。




