第3話 聖騎士団の紋章
翌朝、雨はまだ止まなかった。
王都の空は灰色に沈み、鐘楼の上半分が霧に隠れている。大通りには、勇者カイルの国葬を知らせる布告が貼られ始めていた。
若き勇者、北方魔王討伐にて壮烈なる戦死。
三日後、鐘楼広場にて国葬。
王国の民よ、英雄の魂を讃えよ。
そこには、カイルが背中から刺されたことも、胸の火傷が死後につけられたことも書かれていない。
当然だった。
真実はいつも、布告より遅れて届く。
ノアは葬儀社の小さな応接室で、参列者名簿を確認していた。英雄管理局から渡されたものだ。
国王代理。
英雄管理局局長オルガン・レイス。
聖騎士団副団長ベイル・ラドナー。
聖女見習いエリシア・ヴェイン。
勇者パーティー随行者三名。
各ギルド代表。
王都民代表。
ノアは「聖騎士団副団長」の名に視線を止めた。
ベイル・ラドナー。
カイルの最終任務に同行した聖騎士の一人だ。カイルが握っていた布切れが聖騎士団のものなら、まず確認すべき相手だった。
だが、葬儀師が聖騎士団を尋問することなどできない。ノアにあるのは、葬儀準備のために参列者と連絡を取る権限だけだ。
それでも、聞けることはある。
ノアが羽ペンを取った時、玄関の鈴が鳴った。
「レクター葬儀社です」
扉を開けると、白い外套を着た少女が立っていた。
雨に濡れた銀色の髪。胸元には、聖務庁の小さな徽章。年はノアと同じくらいか、少し下だろう。
少女は丁寧に頭を下げた。
「聖務庁より参りました。エリシア・ヴェインと申します」
参列者名簿にあった名だ。
「ノア・レクターです。どうぞ中へ」
エリシアは外套の水を払ってから、静かに応接室へ入った。姿勢がまっすぐで、言葉遣いも整っている。だが、目元には疲れが滲んでいた。
「勇者カイル様に、祈りを捧げたいのです。国葬の前に、一度だけ」
「お知り合いでしたか」
「任務に同行したわけではありません。ただ、出発前に聖務庁で祈りを捧げました。彼は……とても緊張していました」
エリシアは膝の上で手を握った。
「勇者に選ばれた方は、皆さん堂々としているものだと思っていました。でも、カイル様は違いました。怖い、と小さくおっしゃったのです」
ノアは黙って聞いた。
「それでも彼は行きました。自分が逃げれば、誰かが代わりに死ぬから、と」
弔辞には、そんなことは書かれていなかった。
勇猛果敢。
恐れ知らず。
王国の剣。
美しい言葉は、時に人間の震えを消してしまう。
「エリシア様」
「様は不要です。私はまだ聖女ではありません」
「では、エリシアさん。カイル様の最期について、何か聞いていますか」
彼女は顔を上げた。
「最期、ですか」
「公式には、魔王の炎を胸に受けたと」
「はい。聖務庁にもそう伝えられています」
「その場にいた聖騎士団の方から、直接話を聞きましたか」
エリシアの表情がかすかに曇った。
「いいえ。英雄管理局から、説明があっただけです」
「聖騎士団副団長のベイル殿は、任務に同行していたのですね」
「そのはずです。カイル様の護衛として」
ノアは少し迷った。
この少女にどこまで話すべきか。
彼女は聖務庁の人間だ。王国側の人間でもある。だが、カイルを「英雄」ではなく「怖がっていた少年」として覚えている。
ノアは棚から白い皿を取り出した。そこには、洗浄せず保管してある布切れが載っている。
エリシアの目が、その紋章を捉えた瞬間、息が止まった。
「聖騎士団の……」
「カイル様が握っていました」
「なぜ、それを私に」
「彼の死には、不審な点があります」
エリシアの顔がこわばる。
「不審な点?」
「胸の火傷は、死後につけられたものでした。本当の致命傷は背中の刺し傷です。人間の短剣によるものと思われます」
沈黙。
雨音が応接室に満ちていく。
エリシアは唇を震わせ、ようやく言葉を出した。
「それは……何かの間違いでは」
「間違いであってほしいと思っています」
「ですが、王国が、そんな」
「王国が何をしたかは、まだ分かりません。ただ、カイル様の遺体は公式記録と違う事実を示しています」
エリシアは立ち上がりかけ、また座った。祈りを捧げに来た少女には、あまりに重い話だったのだろう。
「ノアさんは、どうするつもりですか」
「葬儀までに、できる限り確認します」
「確認して……もし本当に、誰かがカイル様を殺したのだとしたら」
「その時は、彼を嘘のまま弔うことはできません」
エリシアの瞳に、怯えが浮かんだ。
「国葬です。王国中が見ています。弔辞は英雄管理局が決めています。そこで余計なことをすれば、あなたも、この葬儀社も」
「分かっています」
「分かっていません」
彼女の声が少し強くなった。
「死者のためだとしても、生きている人まで巻き込まれます。英雄の死を疑うことは、王国の発表を疑うことです」
「では、疑ってはいけないのですか」
エリシアは答えられなかった。
その時、再び玄関の鈴が鳴った。
今度は乱暴だった。
ノアが扉を開けると、英雄管理局の使者が立っていた。昨日の役人とは違う若い男だが、同じ灰色の制服を着ている。
「ノア・レクターだな」
「はい」
男は封筒を差し出した。
「局からの通達だ」
ノアは封を切った。
中には短い文面があった。
勇者カイル・アーヴィングの遺体について、追加検査、私的確認、参列者への聞き取りを禁ずる。
葬儀社は遺体保全と儀式準備に専念せよ。
死因はすでに英雄管理局により確定している。
ノアは文面を読み終えた。
死因はすでに確定している。
では、なぜ彼らは追加検査を禁じるのか。
何も隠すことがないなら、遺体はただ静かに眠っていればいいはずなのに。
使者はノアの顔を見て、低く言った。
「余計なことはするな。勇者の葬儀は、葬儀師のものではない」
扉が閉まる。
ノアは通達を手にしたまま、しばらく動かなかった。
背後で、エリシアが小さく呟いた。
「……本当に、何かを隠しているのですね」
ノアは振り返った。
彼女の顔からは、王国を信じたいという色が消えきってはいなかった。だが、そこに初めて疑いが混じっていた。
ノアは皿の上の布切れを見た。
聖騎士団の紋章。
血で汚れ、引き裂かれた証拠。
「エリシアさん」
「はい」
「祈りを捧げる前に、カイル様が何に手を伸ばして死んだのかを知りたいのです」
エリシアは目を伏せた。
長い沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。
「私にできることがあるなら」
ノアは通達を机に置いた。
英雄管理局は、調べるなと言った。
つまり、調べられたくないことがある。
葬儀まで、あと二日。
勇者の棺は、まだ閉じられない。




