第2話 魔王の炎は死後につけられた
「ミレイを呼んでくれ」
ノアがそう言うと、葬儀社の奥で帳簿を整理していた見習いの少年が目を丸くした。
「今からですか」
「今すぐ」
「でも、英雄管理局の書類には、死因はもう」
「書類は死者じゃない」
ノアが静かに言うと、少年は慌てて頷き、裏口から雨の中へ駆け出していった。
一人になると、ノアは改めて棺に向き直った。
勇者カイルの表情は穏やかだった。戦場で最期を迎えた者にしては、あまりにも静かだ。苦痛に歪んだ跡も、叫んだ痕跡も薄い。
魔王の炎を胸に受けて即死した。
公式記録にはそうある。
だが、それならば、なぜ火傷の周囲に生前反応がほとんどないのか。
なぜ衣服の焦げ方と皮膚の焼け方が一致しないのか。
なぜ胸の焼損が、まるで人目につく場所だけを選んだように集中しているのか。
ノアは白手袋を替え、傷に近い部分の布を丁寧に外した。死者に触れる指先は、いつもより慎重になる。
ほどなくして、裏口が乱暴に開いた。
「呼んだ? 雨の日に? しかも勇者の遺体で?」
明るい声とともに入ってきたのは、赤茶色の髪をひとつに結んだ女だった。濡れた外套を乱暴に脱ぎ、作業台の横に置く。
ミレイ・オルコット。
王都でも数少ない死体防腐師で、レクター葬儀社とは父の代から付き合いがある。年は二十代半ば。軽い口調のわりに、遺体を見る目は誰よりも冷静だった。
「勇者カイルか。王都中が騒いでるよ。若き英雄、魔王の炎に散る。広場じゃもう花売りが値上げしてた」
「胸の火傷を見てほしい」
ノアが言うと、ミレイの顔から軽さが消えた。
「……公式死因を疑ってる?」
「疑っているんじゃない。違和感がある」
「それ、だいたい疑ってるって言うんだけどね」
ミレイはそう言いながらも、すぐに手袋をはめた。小さな銀の針、魔力反応を見る水晶板、皮膚温の残留を調べる薄い紙片を取り出す。
彼女は胸の火傷を覗き込むと、ほんの数秒で眉を寄せた。
「変だね」
「やはり?」
「うん。魔王の炎どころか、通常の火炎魔術で焼かれた傷とも違う。表面だけ炙ってる。深部まで熱が入ってない」
ミレイは水晶板を傷の上にかざした。淡い青の光が揺れ、すぐに消える。
「しかも、死後だ」
ノアは目を閉じた。
予感が、言葉になった。
「生きている時に受けた火傷じゃない」
「少なくとも、これで死んだわけじゃないね。心臓の上を派手に焼いてるけど、血流反応がない。先に死んで、そのあと焼かれた。見せるために」
「見せるため」
ノアは弔辞の紙を見た。
魔王の炎を胸に受け、壮絶に戦死。
たしかに、胸に焼け跡があれば、その物語は分かりやすい。民衆は棺を見て納得する。勇者は正面から魔王に立ち向かったのだと。
「本当の死因は分かるか」
「それを調べるには、全身を見ないと」
ノアは頷き、カイルの遺体を慎重に横向きにした。
その瞬間、ミレイが息を止めた。
背中。
肩甲骨の下から、心臓へ向かう位置に、細い刺し傷があった。
派手な傷ではない。布で隠せば見えないほど小さい。だが、その傷は深く、正確だった。
ミレイは黙って銀の針を当てた。傷口の角度を測り、周囲の筋肉の硬直を確認する。
「これだね」
「致命傷か」
「たぶん。後ろから、短剣か細身の剣で一突き。肋骨の隙間を通して、心臓まで届いてる。相当慣れた手口だよ」
「魔物ではない?」
「魔物なら、こんなに細くて正確な傷にはならない。爪でも牙でもない。魔王の炎でもない」
ミレイはノアを見た。
「人間の武器だね」
作業室が静まり返った。
雨音だけが、窓を叩き続けている。
勇者カイルは、魔王に殺されたのではない。
少なくとも、魔王の炎で死んだのではない。
誰かが背後から近づき、彼の心臓を刺した。
そのあと、胸を焼き、魔王の炎に殺されたように見せかけた。
「英雄管理局は、知っていると思うか」
ノアが尋ねると、ミレイは肩をすくめた。
「知らずにこの書類を出したなら無能。知ってて出したなら最悪。どっちがいい?」
「どちらもよくない」
「だよね」
ノアはカイルの右手に目を向けた。
棺を開けた時から気になっていた。カイルの右手だけが、不自然に握りしめられている。死後硬直のせいで開きにくいが、ただ拳を作っているのではない。
何かを握っている。
「ミレイ、手を」
「無理に開くと指を痛めるよ」
「分かっている」
ノアは温めた布で指を包み、ゆっくりと硬直を和らげた。親指、人差し指、中指。一本ずつ、丁寧に開いていく。
死者の手から何かを取り上げる時、父は必ず謝っていた。
ノアも小さく呟いた。
「失礼します」
最後の薬指が開く。
掌の中から、血で汚れた小さな布切れが出てきた。
白地の布。
端は破れている。誰かの衣服か、マントの一部だろう。そこに、銀糸で紋章が刺繍されていた。
剣を囲む、二枚の翼。
ミレイの顔色が変わる。
「これ……聖騎士団の紋章だよ」
聖騎士団。
王国に仕える精鋭部隊。勇者の護衛を務め、魔王討伐にも同行する名誉ある騎士たち。
勇者カイルは、その紋章布を握って死んでいた。
ノアは布切れを白い皿に置いた。
血は黒く乾いている。布の端は強く引き千切られていた。カイルが死の間際、相手の衣服を掴んだのだとすれば。
彼は、背中を刺した相手に手を伸ばしたのかもしれない。
「ノア」
ミレイの声が低くなる。
「これ、ただの葬儀じゃ済まないよ」
「分かっている」
「英雄管理局に逆らうことになる」
「まだ逆らっていない」
「もう片足突っ込んでる」
ノアは棺の中のカイルを見下ろした。
十七歳。
勇者。
王国の希望。
その肩書きの下に、一つの事実が横たわっている。
背中から刺された青年。
死後に胸を焼かれた遺体。
手に握られた聖騎士団の紋章。
ノアは白手袋を外し、新しい手袋に替えた。
「葬儀まで三日ある」
「調べる気?」
「弔辞を読む前に、彼がどう死んだのかを知らなければならない」
ミレイはため息をついた。
「お父さんに似てきたね」
その言葉に、ノアは一瞬だけ動きを止めた。
父も、こうして違和感を追ったのだろうか。
だから死んだのだろうか。
だが、今ここで眠っているのは父ではない。
勇者カイルだ。
ノアは棺に向かって、もう一度深く頭を下げた。
「あなたの死を、嘘のままにはしません」
窓の外で、雨が強くなった。
まるで王都全体が、何かを隠そうとしているかのように。




