第1話 雨の日、勇者の棺が届いた
王都の雨は、死者にやさしくない。
濡れた石畳を、黒い馬車が一台、音もなく進んでいた。車輪が泥水を跳ねるたび、棺にかけられた白布の端がかすかに震える。
馬車が止まったのは、王都の中心から少し外れた古い通りだった。大聖堂へ続く大通りでも、貴族街の華やかな門前でもない。店先に古びた看板が掲げられた、小さな葬儀社の前だった。
看板には、金の文字でこう刻まれている。
レクター葬儀社。
その下に、さらに小さく。
勇者葬儀、承ります。
「勇者様のご遺体だ。粗相のないように」
馬車から降りた王国英雄管理局の役人は、それだけ言って、濡れた外套の水を払った。まるで棺の中身より、自分の靴先についた泥のほうが気になるとでもいうような顔だった。
ノア・レクターは、扉の前で深く頭を下げた。
「お預かりいたします」
十八歳。葬儀師としては若すぎる。背も高くなく、声も大きくない。黒い葬儀服に身を包んでいても、まだ少年の面影が残っていた。
だが、棺を前にした時だけ、ノアの目は静かに据わる。
父が亡くなって三月。
レクター葬儀社を継いでから、一般の葬儀はいくつか担当した。老いた商人、病で亡くなった婦人、事故で命を落とした荷運びの男。
だが、勇者の葬儀を一人で任されるのは、これが初めてだった。
「書類はここにある」
役人は革筒から数枚の羊皮紙を取り出し、濡れないよう雑に丸めたままノアへ押しつけた。
「勇者カイル・アーヴィング。十七歳。北方魔王討伐任務中、魔王の炎を胸に受け戦死。王国は三日後、鐘楼広場にて国葬を執り行う。貴社は遺体の保全、清拭、死化粧、棺の整備を担当せよ。弔辞は英雄管理局が用意したものを使用すること」
ノアは書類を受け取った。
「ご遺族への確認は」
「不要だ」
即答だった。
「勇者様は王国全体の英雄だ。個人の葬儀ではない」
その言葉に、ノアの指がわずかに止まる。
個人の葬儀ではない。
葬儀師にとって、それは奇妙な言葉だった。
どれほど大きな功績を残しても、どれほど多くの人に称えられても、棺の中で眠るのは一人の人間だ。王国でも、称号でも、物語でもない。
名前を持ち、体温を失い、二度と目を覚まさない誰か。
それを迎えるのが、葬儀師の仕事のはずだった。
「……承知しました」
ノアはそれ以上、役人に逆らわなかった。
黒い馬車から、棺が降ろされる。
重い。
若い男一人の遺体が入っているにしては、棺は妙に重く感じられた。雨で湿った木材のせいかもしれない。あるいは、勇者という肩書きが見えない重みを増しているのかもしれない。
棺が葬儀社の奥へ運び込まれると、役人は最後に一枚の紙を差し出した。
「これが弔辞だ。誤字の確認以外、手を加えるな」
「はい」
「勇者様は、魔王に正面から立ち向かい、仲間を逃がすために命を落とした。民衆には、そのように伝える」
「そのように、ですか」
役人の目が細くなった。
「何か」
ノアは静かに首を振った。
「いいえ」
役人は鼻を鳴らし、馬車へ戻っていった。黒い馬車は雨の中を去り、葬儀社の前には泥水の車輪跡だけが残った。
扉を閉めると、急に雨音が近くなる。
ノアは棺の前に立った。
奥の作業室には、白い布が敷かれた台がある。壁には父が使っていた道具が、今も整然と並んでいた。清拭用の布、香油、小さな銀の鋏、死化粧の粉、葬儀用の白手袋。
父はいつも言っていた。
死者に触れる時、最初に見るべきものは傷ではない。顔でもない。死因でもない。
その人が、帰ってきたという事実だ。
ノアは白手袋をはめ、棺に向かって一礼した。
「お帰りなさいませ、勇者様」
それが、レクター家に伝わる最初の挨拶だった。
棺の蓋に手をかける。
古い金具が、小さく軋んだ。
蓋を開けた瞬間、冷たい空気が流れ出した。防腐魔術の残滓と、雨に濡れた木の匂い。それに混じって、かすかな焦げ臭さがあった。
棺の中には、一人の青年が眠っていた。
勇者カイル・アーヴィング。
年齢はノアより一つ下。まだ少年と言ってもよかった。薄い金髪は丁寧に整えられ、閉じられた瞼は静かだった。顔立ちは端正で、たしかに大聖堂の壁画に描かれる英雄のようにも見える。
けれど、棺の中の彼は英雄ではなかった。
痩せた頬。乾いた唇。爪の間に残った黒い泥。肩口に薄く残る擦り傷。
戦って、苦しんで、帰ってきた一人の青年だった。
ノアは書類を台の上に置いた。
公式死因。
魔王の炎による胸部焼損。
即死。
最期まで聖剣を離さず、仲間を逃がすために戦った。
弔辞には、美しい言葉が並んでいた。
勇気。献身。栄光。永遠。王国の誇り。
ノアは、その文字列から目を離し、カイルの胸元にかけられた布をそっと開いた。
焼け焦げた跡があった。
胸の中央。心臓の上あたり。皮膚は黒く変色し、周囲の布も焦げている。書類通り、魔王の炎を受けたように見えた。
けれど、ノアはすぐに手を止めた。
違和感があった。
胸の奥に、冷たい針が一本刺さったような感覚。
ノアは息を殺し、傷の周囲を確認する。皮膚の焼け方。布の焦げ方。血の乾き方。熱が入ったはずの周辺組織の状態。
父から何度も教わった。
火で死んだ者と、死んでから焼かれた者では、遺体の反応が違う。
生きている体は、傷つけば抗う。血が集まり、肉が腫れ、皮膚は苦痛の痕跡を残す。
だが、カイルの胸にはそれが薄かった。
焼けている。
確かに焼けている。
だが、死ぬほどの炎を受けた者の傷ではない。
ノアは、かすかに喉を鳴らした。
「……これは」
雨音が窓を叩く。
勇者の眠る作業室で、ノアは一人、棺の中を見下ろしていた。
胸の火傷は、あまりにもきれいすぎた。
まるで、誰かがあとから物語に合わせてつけた飾りのように。




