第45話 聖女の本当の祈り
国葬は、中断された。
王国の式次第は破綻した。
勇者アレスを最後の魔王を討った英雄として送る儀式は、もう続けられなかった。
だが、葬儀そのものは終わっていない。
ノアは、アレスの棺の前に立っていた。
広場の混乱は完全には収まっていない。だが、オルガンが王国軍を下がらせ、ギルド代表たちが民衆を落ち着かせ、聖務庁の若い祈り手たちが怪我人に手当てを始めたことで、最悪の事態は避けられていた。
聖務庁の高位司祭たちは顔を青ざめさせ、王国軍の将校たちは不満を隠せない。英雄管理局の職員たちも混乱している。
それでも、棺はそこにある。
勇者アレスは、まだ送られていない。
ノアはエリシアへ視線を向けた。
彼女は頷き、祭壇の中央へ戻った。
「この葬儀を、終わらせましょう」
エリシアの声が、広場に響く。
「嘘で飾るためではなく、死者を送るために」
聖務庁の司祭が何か言いかけたが、若い祈り手の一人が彼を止めた。
「聞きたいです」
その祈り手は震えていた。
「私も、何のために祈ってきたのか、知りたい」
それに続くように、数人の祈り手がエリシアの後ろに立った。
聖務庁の列が割れた。
王国の祈りを守る者と、死者のための祈りを求める者に。
エリシアは、彼らを見て静かに頭を下げた。
「私は、聖女ではありません」
彼女は言った。
「聖務庁の命令に背きました。祈祷文を捨てました。きっと、正式な祈り手としては失格です」
誰も笑わなかった。
「でも、リナがもう祈れないと書いた時、私は思いました。祈りとは、死者にさらに役割を背負わせるものではないはずです」
エリシアはアレスの棺へ向き直る。
「勇者アレス様。あなたは、最後の魔王を討った勝利者としてではなく、戦いを終わらせようとした人として、ここに眠っています」
彼女は杖を置いた。
聖務庁の象徴を、祭壇の床に。
そして、両手を胸の前で組んだ。
「神よ、と呼ぶ前に、私は死者の名を呼びます」
広場が静まる。
「アレス・グラント様。あなたが剣を置こうとしたことを、私たちは忘れません」
彼女の声は、まっすぐだった。
「ゼルド・ハイム様。あなたは最後の魔王としてではなく、和平を望んだ相手として記録されるべきです」
魔王の名が、王都の中心で祈りの中に呼ばれた。
それは、おそらく王国史上初めてのことだった。
「カイル・アーヴィング様。あなたが守ろうとした子どもたちの名が、いつか記録に戻りますように」
「リナ・メイベル。もう祈らなくていいです。あなたの痛みを、祈りで飾りません」
エリシアの声が少し震える。
「アルト・ヴェイン様。あなたが背負った嘘を、いつか必要のないものにできますように」
「ユージン・クロフト様。どうか、今どこかで生きていてください。勇者でなくても、生きていてください」
広場のどこかで、誰かが泣いた。
「セオ。番号ではなく、あなたの名を呼びます。トマ、ミナ、そしてまだ番号で呼ばれている子どもたちの名が戻りますように」
トマが顔を覆う。ミナは泣きながらも、エリシアを見ていた。
「ガルディア・ノクス様。あなたを魔王としてだけ記録しません。あなたの民と娘さんに、いつか安全な弔いの場が戻りますように」
「ルシアン・ヴェイン」
その名で、エリシアの声が崩れかけた。
けれど、彼女は踏みとどまった。
「兄さん。あなたが逃がそうとした子どもたちのために、私は祈るだけでは終わりません」
ノアは目を伏せた。
エリシアの祈りは、もう聖務庁の祈りではなかった。
死者を光へ送るだけではない。
生者が何を引き受けるかを誓う祈りだった。
「ロアン・アルバ様。あなたの沈黙も、後悔も、遺言も、ここから始まる記録の一部になりますように」
「イザーク・レクター様。あなたが残した記録を、息子さんがここに届けました」
ノアの胸が熱くなる。
エリシアは最後に、もう一度アレスの棺へ向き直った。
「勇者アレス様」
彼女は深く頭を下げた。
「あなたを、勝利のためではなく、終わらせるために戦った人として送ります。どうか、今度こそ剣を置いて眠れますように」
その瞬間、鐘楼の鐘が鳴った。
誰が鳴らしたのか、やはり分からなかった。
だが、今度の鐘は、国葬の鐘とは違って聞こえた。
勝利の鐘ではない。
王国の栄光を告げる鐘でもない。
死者のための鐘だった。
ノアは棺の前へ進んだ。
「アレス様」
彼は最後の弔辞を述べる。
「あなたの死は、王国の勝利を飾るものではありません。あなたの死は、私たちに問いを残しました。勝利とは何か。平和とは何か。英雄とは何か。魔王とは何か」
ノアは民衆を見る。
「その答えは、今日ここで出ません。ですが、少なくとも一つだけ言えます」
彼はアレスの棺に手を置いた。
「死者を嘘で飾ることは、平和ではありません」
オルガンが、静かに目を伏せた。
ノアは続ける。
「これより、勇者アレス・グラント様を送ります。最後の魔王を討った英雄としてではなく、戦いを終わらせようとした一人の人間として」
彼は深く一礼した。
「おやすみなさいませ、アレス様」
エリシアが祈る。
若い祈り手たちも、それに続いた。
最初は数人。
やがて、広場のあちこちで人々が頭を下げ始めた。
すべてを信じたわけではない。
まだ混乱している者も、怒っている者も、拒む者もいる。
それでも、アレスの棺の前で、人々は頭を下げた。
英雄としてではなく。
死者として。
その光景を見て、ノアはようやく少しだけ息を吐いた。
葬儀は、終わった。
だが、物語は終わらない。
この後、王国は揺れる。
英雄管理局は責任を問われる。
聖務庁は祈りのあり方を問われる。
王国軍は魔王領との戦争記録を問われる。
そして民衆は、信じてきた英雄譚と向き合わなければならない。
死者の名を呼ぶことは、世界を一瞬で正す魔法ではない。
それは、長い弔いの始まりだった。




