第44話 死者たちの名前
沈黙は長く続かなかった。
最初に動いたのは、王国軍だった。
将校が剣を抜き、叫んだ。
「反逆だ! 全員拘束しろ!」
兵士たちが祭壇へ殺到する。
民衆が悲鳴を上げる。
人の波が揺れ、押し合い、転びそうになる。
その混乱の中で、オルガンがようやく動いた。
彼は片手を上げた。
「王国軍は下がれ」
将校が振り返る。
「局長! この者たちは王国を侮辱しています!」
「今、ここで剣を抜けば、国葬は虐殺の場になる」
「しかし!」
「下がれと言っている」
オルガンの声は大きくなかった。
だが、将校は一瞬、動きを止めた。
英雄管理局長としての権威が、まだそこにあった。
その隙に、ミレイたちがさらに記録の写しを人々へ渡していく。新聞書きが叫ぶ。
「この記録、印章が本物だ!」
「英雄管理局の分類印がある!」
「勇者死亡処理分類……何だこれは!」
ギルド代表たちもざわめく。
商人ギルドの代表が、魔王指定による税収増加記録を読み、顔を青ざめさせた。兵士ギルドの古参は、候補生処理記録を見て拳を震わせている。吟遊詩人の一人は、ロアンの遺言を読みながら泣いていた。
真実は、一度に広がる火ではない。
だが、小さな灯りがあちこちに移っていく。
ノアは祭壇の上からそれを見ていた。
自分がすべてを説明する必要はない。
死者の記録が、人々の手に渡り始めている。
その時、聖務庁の高位司祭がエリシアの前に立った。
「エリシア・ヴェイン。あなたは聖務庁の祈りを汚した」
エリシアは静かに司祭を見返した。
「汚したのは、死者の痛みを隠すために祈りを使った人たちです」
「聖女見習い風情が」
「私はもう、聖女見習いでなくても構いません」
司祭の顔が歪む。
「祈りを失って、何が残る」
エリシアは棺へ目を向けた。
「名前が残ります」
その一言に、司祭は黙った。
エリシアは民衆へ向き直る。
「聖務庁で、私は祈りを学びました。死者の魂が光へ帰るようにと。けれど、私は長く、誰のために祈っているのかを考えていませんでした」
広場が、彼女の声を聞き始める。
「リナは、もう祈れないと書いて死にました。ルシアンは、子どもたちを逃がそうとして死にました。ガルディア様の娘は、人間の祈りなどいらないと言いました」
エリシアは胸に手を当てた。
「それでも、私は祈ります。許されるためではありません。死者の痛みを消すためでもありません。忘れないために祈ります」
彼女は杖を掲げた。
聖務庁の定型祈祷ではない。
王国のための祈りでもない。
「どうか、死者の名が、役割に奪われませんように」
広場に淡い光が広がった。
それは奇跡というほど大きなものではない。
誰かを治す光でも、敵を払う光でもない。
ただ、祭壇の上の花を静かに揺らすだけの光。
けれど、その光の中で、多くの人が花を握りしめた。
誰かを思い出すように。
戦場で帰らなかった息子。
勇者候補として連れていかれた子。
聖女候補として戻らなかった娘。
魔王領との境界で消えた家族。
王国が用意した大きな物語の下には、数えきれない小さな死がある。
人々は、そのことを初めて思い出し始めていた。
その時、群衆の中から声が上がった。
「うちの弟も、勇者候補だった!」
別の声。
「聖女候補で北方へ行った娘の死因を、もう一度調べてくれ!」
「魔王領の避難民を匿っただけで父は連れていかれた!」
「記録を見せろ!」
広場の声が、怒りに変わり始める。
ノアはすぐに危うさを感じた。
怒りは必要だ。
だが、怒りだけで動けば、また誰かが傷つく。
オルガンも同じことに気づいたのだろう。彼は祭壇へ上がり、ノアの隣に立った。
民衆がざわめく。
英雄管理局長。
死者の物語を管理してきた男。
ノアは身構えた。
オルガンは広場を見渡し、静かに言った。
「今、ここで怒りに任せて剣を取れば、また死者が増える」
その声はよく通った。
「それを望んでいる者がいる。真実を暴動として処理し、葬儀師たちの言葉を反乱として消したい者たちがいる」
王国軍の将校たちが顔色を変えた。
オルガンは続けた。
「私は英雄管理局長として、多くの死者の記録を書き換えてきた」
広場が静まる。
ノアは息を呑んだ。
オルガンは、自ら認めた。
「その罪は消えない。だが、今この場で最も恐れるべきことは、真実を聞いた者たちが互いを殺し始めることだ」
彼はノアを見た。
「葬儀師。続きを」
ノアは一瞬、言葉を失った。
オルガンが、場を整えた。
王国を守るためか。
自分の責任を逃れるためか。
あるいは、これ以上死者を増やさないためか。
分からない。
だが今は、受け取るしかない。
ノアは再び民衆へ向き直った。
「怒ってください」
広場が静まる。
「悲しんでください。疑ってください。記録を求めてください。けれど、今ここで隣の人を敵にしないでください」
ノアは、アレスの棺に手を置いた。
「アレス様は、戦いを終わらせようとして死にました。私たちが今日ここで新しい戦いを始めれば、彼の死はまた別の嘘に使われます」
民衆のざわめきが少しずつ落ち着いていく。
「今日、ここで始めるべきことは、復讐ではありません」
父の言葉が、ノアの中で響く。
「記録を開くことです。名を確認することです。死者がどう死んだのかを、家族が知る権利を取り戻すことです」
エリシアが頷く。
「祈りを、王国のためではなく、死者と遺された人のために戻すことです」
ミレイが記録束を掲げる。
「遺体を見た人間の所見を消させないことです!」
グリムが低く言った。
「子どもを番号で呼ばせないことだ」
その言葉に、トマとミナが泣きながら頷いた。
ノアは言った。
「死者の名を呼ぶことです」
その時、広場の中で一人の老人が帽子を取った。
「俺の息子の名は、ハンスだ」
誰も知らない名。
戦死者かもしれない。勇者候補かもしれない。
だが、老人は震える声で続けた。
「魔王軍に殺されたと聞いた。遺体は戻らなかった。もう一度、記録を調べてくれ」
それを皮切りに、あちこちから名が上がった。
「娘はミリア!」
「弟はロッド!」
「姉は聖女候補のサラ!」
「父は境界村のトルガ!」
広場は怒号ではなく、名前で満ち始めた。
死者の名。
王国の記録の下に沈んでいた名前。
ノアは目を閉じた。
これは、すべてを解決する声ではない。
これから混乱が起きるだろう。
調査も、反発も、隠蔽も、争いもある。
だが、もう死者は完全には沈黙しない。
名前が呼ばれ始めたからだ。




