第46話 すべての死者のための葬儀社
国葬から一月が過ぎた。
王都は、以前と同じようで、以前とは違っていた。
鐘楼広場には、勇者アレスの巨大な英雄像は建てられなかった。
代わりに、仮の記録板が置かれた。
アレス・グラント。
ゼルド・ハイム。
和平交渉調査中。
その横には、英雄管理局、聖務庁、王国軍、各ギルド、民間記録官による合同調査委員会の設置が告知されている。
もちろん、すべてが順調に進んだわけではない。
英雄管理局内の強硬派は、証拠の一部を偽造だと主張した。王国軍の将校たちは、魔王領との和平記録を否定した。聖務庁の高位司祭の一部は、エリシアを背信者と呼んだ。
だが、記録はすでに広がっていた。
新聞書きたちが動いた。
吟遊詩人たちが歌った。
ギルド代表たちが調査を求めた。
そして何より、民衆が自分たちの死者の名を持ち寄り始めた。
「うちの息子の記録を調べてください」
「聖女候補だった姉の本当の死因を知りたい」
「勇者候補として連れていかれた弟が、どこへ行ったのか」
レクター葬儀社の前には、毎日のように人が訪れた。
葬儀の依頼だけではない。
名前を探すため。
死因を確かめるため。
消された記録を取り戻すため。
葬儀社は、以前よりずっと忙しくなった。
ノアは作業室で、新しい台帳を開いていた。
表紙には、父の字を真似てこう書いた。
再調査葬儀記録。
死者の名を返すための帳。
ミレイは隣で、遺体所見の整理をしている。
「これ、葬儀社の仕事量じゃないよね。半分、記録局だよね」
「そうですね」
「給料上げて」
「検討します」
「今すぐ」
ノアが少し笑うと、ミレイは満足そうに鼻を鳴らした。
グリムは外で、新しい看板を取り付けていた。
長年掲げられていた看板。
レクター葬儀社。
勇者葬儀、承ります。
その下の小さな文字が、今日から変わる。
ノアは外へ出た。
通りには、エリシアも来ていた。
彼女はもう聖務庁の正式な聖女見習い服を着ていない。白ではなく、淡い灰色の外套。胸には小さな祈りの徽章だけを残している。
聖務庁を完全に離れたわけではない。
若い祈り手たちとともに、死者と遺族のための独立した祈りの会を始めたのだ。聖務庁内では反発も大きいが、彼女の祈りを求める人は増えている。
「看板、変えるのですね」
エリシアが言った。
「はい」
グリムが最後の釘を打つ。
新しい看板が、朝の光に照らされた。
レクター葬儀社。
すべての死者のための葬儀社。
ノアはその文字を見上げた。
勇者だけではない。
聖女だけではない。
英雄だけではない。
魔王と呼ばれた者も、裏切り者とされた者も、番号で呼ばれた子どもも、名もなき旅人も。
すべての死者のために。
「お父様も、喜ばれると思います」
エリシアが静かに言った。
ノアは少し考えて、首を振った。
「怒るかもしれません」
「なぜですか」
「看板代が高かったので」
エリシアは一瞬驚き、それから小さく笑った。
ノアも少しだけ笑った。
笑える日が来るとは思わなかった。
父の死を許したわけではない。
英雄管理局の罪が消えたわけでもない。
王国が一夜で正しくなったわけでもない。
だが、笑うことも、弔いの一部なのかもしれない。
その時、通りの向こうから灰色の外套の男が歩いてきた。
オルガン・レイス。
彼は以前のような局長服ではなく、簡素な外套を着ていた。英雄管理局長の職は、国葬後の混乱の中で一時停止となった。正式な裁きはまだ先だが、少なくとも以前のような権限はない。
グリムが警戒する。
ミレイが露骨に嫌な顔をする。
エリシアも表情を硬くした。
ノアは一歩前へ出た。
「何のご用ですか」
オルガンは新しい看板を見上げた。
「よい看板だ」
「ありがとうございます」
「イザークなら、文句を言うだろうな」
「看板代のことでしょうか」
オルガンはほんのわずかに口元を緩めた。
「おそらく」
それは、初めて見る彼の人間らしい表情だった。
だが、ノアは気を許さなかった。
オルガンは懐から一通の封筒を取り出した。
「約束のものだ」
ノアは受け取る。
封筒の中には、一枚の記録が入っていた。
イザーク・レクター。
実死因、薬針による心停止。
処理決定、英雄管理局強硬派会議。
処理理由、初代勇者団証言記録の拡散阻止。
備考、局長オルガン・レイス、即時処理に反対。監視継続を提案するも却下。
ノアは記録を見つめた。
父の本当の死因。
ようやく、手の中に来た。
感情はすぐには湧かなかった。
怒りも、悲しみも、安堵も、全部が静かに沈んでいる。
「なぜ今」
「君が、それを刃としてではなく記録として受け取れると思った」
オルガンは言った。
ノアは封筒を胸に抱えた。
「許したわけではありません」
「許されるとも思っていない」
「あなたのしたことは、消えません」
「知っている」
「これから、あなた自身も記録されます」
「そのために来た」
オルガンは静かに言った。
「私が知る範囲の英雄管理局記録を、証言する」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「なぜ」
エリシアが尋ねる。
オルガンは彼女を見た。
「国葬の日、私は理解した。私が守ろうとした国は、死者の名を踏んだままでは立っていられない」
彼は少しだけ目を伏せた。
「私は長く、死者の真実より生者の秩序を選んできた。だが、秩序のために死者を消し続ければ、生者もいつか自分の死を信じられなくなる」
ノアは黙って聞いていた。
「私は償えるとは思わない。だが、記録することはできる」
それは、謝罪ではなかった。
だが、始まりではあった。
ノアは頷いた。
「では、中へ」
ミレイが小声で言う。
「入れるの?」
「記録を取るためです」
「毒とか盛らない?」
「盛りません」
「ちぇっ」
オルガンはそれを聞いて、少しだけ眉を上げたが、何も言わなかった。
その日、レクター葬儀社の新しい台帳に、オルガンの証言記録が始まった。
勇者制度の分類。
魔王指定の手順。
聖務庁との連携。
王国軍強硬派の関与。
イザーク殺害の決定。
ロアンの棺。
アレス和平交渉の隠蔽。
すべてが一日で終わるはずもない。
何日も、何週間も、何か月もかかるだろう。
その間にも、葬儀はある。
死者は待ってくれない。
夕方、最初の新しい依頼が来た。
馬車ではなかった。
王国の使者でも、英雄管理局でも、聖務庁でもない。
一人の旅人が、小さな棺を背負ってやって来た。
服は泥だらけで、顔は疲れ切っている。棺には名前がなかった。
「すみません」
旅人はかすれた声で言った。
「この人を、葬ってもらえますか。名前は……分かりません。道で倒れていて、でも、放っておけなくて」
ノアは棺を見た。
名もなき死者。
物語を揺るがす英雄でもない。
王国の陰謀を握る証人でもない。
大きな役割を背負った誰かでもない。
ただ、道で倒れていた一人の死者。
ノアは深く頭を下げた。
「お預かりします」
旅人はほっとしたように棺を下ろした。
ノアは作業室へ案内する。
白い布を敷き、棺を置く。
父の白手袋をはめる。
台帳を開く。
名前の欄は空白。
だが、それでいい。
これから探せばいい。
見つからなくても、名がなかったのではなく、まだ分からないだけだと記録すればいい。
ノアは棺の前に立った。
エリシアがそばで祈りの準備をする。
ミレイが道具を整える。
グリムが静かに扉を閉める。
オルガンは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
ノアは棺に向かって深く一礼する。
「お帰りなさいませ」
それは、いつもの言葉だった。
勇者にも、聖女にも、魔王にも、名もなき旅人にも、同じようにかける言葉。
死者を迎えるための言葉。
そして今、この葬儀社の新しい始まりの言葉でもあった。
ノアは続けた。
「ここは、すべての死者のための葬儀社です」
窓の外で、夕方の鐘が鳴る。
その音はもう、王国の物語を告げる鐘ではなかった。
誰かの帰りを知らせる鐘だった。




