第40話 和平を望んだ勇者
勇者アレスの遺品は、厳重に管理されていた。
聖剣。
破れた外套。
魔王の爪痕がついたとされる胸当て。
血のついた手袋。
最後の戦場で回収された黒い布片。
英雄管理局は、それらを国葬で展示する予定だった。
民衆に、勇者がいかに壮絶に戦ったかを見せるために。
だがノアが注目したのは、展示予定のないものだった。
小さな封筒。
アレスの棺の内側、枕の下に隠されていた。誰かが故意に置いたものだ。封筒には、勇者アレスの印章が押されている。
ノアは安置室を出た後、エリシアたちと合流し、レクター葬儀社で封を開けた。
中には、一通の手紙があった。
宛名はない。
もしこの手紙が葬儀師の手に届いたなら、私は王国の望む形で死んだのだろう。
ノアは息を呑んだ。
アレスは、自分が死後に物語へ変えられることを予想していた。
手紙は続く。
私は最後の魔王を討っていない。
彼の名は、ゼルド・ハイム。
王国が魔王と呼ぶには、あまりに疲れた男だった。
我々は戦場で剣を交えた。
だが、二度目に会った時、彼は剣を置いた。
私も剣を置いた。
互いの民が疲れ果てていることを、私たちは知っていた。
王国も魔王領も、もう勝利では救われない。
終わらせるには、どちらかが倒れるのではなく、どちらも剣を置く必要があった。
エリシアが手を胸に当てた。
「アレス様は、本当に和平を」
ノアは読み続ける。
和平案は成立しかけていた。
魔王領は鉱脈の一部を共同管理とし、王国は遠征軍を撤退させる。
捕虜を交換し、境界の村を再建する。
勇者と魔王は、互いを討たない証人となる。
だが、その和平は王国の一部に拒まれた。
王国軍強硬派。
英雄管理局内の強硬派。
聖務庁の一部。
戦争を必要とする者たち。
私の死後、おそらく私は魔王を討った英雄にされる。
ゼルドは最後の魔王として記録される。
和平の記録は消される。
だから、ここに書く。
私は魔王を討たなかった。
私は、彼と握手した。
その一文に、作業室の全員が黙った。
勇者と魔王が握手した。
王国が最も隠したい光景だろう。
ノアは最後まで読んだ。
私を英雄として弔わないでほしい。
ゼルドを怪物として葬らないでほしい。
もし弔辞を読む者がいるなら、こう伝えてほしい。
私たちは、勝つためではなく、終わらせるために戦った。
そして、終わらせる直前に殺された。
エリシアの瞳に涙が浮かんでいた。
「兄と同じです」
「はい」
ノアは静かに言った。
ルシアンは子どもたちを逃がそうとして殺された。
ガルディアは民を守ろうとして魔王にされた。
アレスは和平を結ぼうとして英雄にされた。
王国は、戦いを終わらせようとする者を許さない。
ミレイが拳を握る。
「この手紙、国葬で読めば終わりじゃない?」
グリムが首を振った。
「簡単すぎる。偽造だと言われる」
「でも印章がある」
「英雄管理局は、印章ごと偽物にできる」
ノアも頷いた。
「遺体の傷、手紙、地下記録庫の写し、ロアン様の遺言。すべてをつなげる必要があります」
エリシアが言った。
「聖務庁側の証言も必要です」
「ありますか」
「勇者アレスの国葬で、私は祈り手の一人です。国葬用の祈祷文には、おそらく『魔王を討った』という文言が入っています。私は、それを読まない」
「危険です」
「分かっています」
エリシアは静かに続けた。
「リナの時、私は祈りの言葉を変えました。ルシアンの時、私は妹として祈りました。今度は、聖務庁の祈りそのものを止めます」
その声には、迷いがなかった。
ミレイは手紙を写しながら言った。
「じゃあ役割分担だね。ノアは弔辞。エリシアは祈り。グリムは暴れてくる兵を止める。私は証拠をばらまく」
「ばらまく?」
「複写した記録を、国葬の場にいる記録官や新聞書き、吟遊詩人、各ギルド代表に渡す。全部は読めなくても、同じ記録が複数の手に渡れば、英雄管理局も消しきれない」
ノアは少し驚いた。
「考えていたのですか」
「そりゃ考えるよ。私だって、死体ばっかり見てるだけじゃないし」
ミレイは照れ隠しのように顔を背けた。
グリムが言った。
「俺は祭壇の近くに立つ。止めに来る兵を抑える。ただし長くは無理だ」
「長くは必要ありません」
ノアは答えた。
「最初の一文を変えれば、葬儀は止まります」
「その後、殺されるけどね」
ミレイが言う。
「だから、止まった後に民衆が聞き続ける理由が必要です」
エリシアはアレスの手紙を見た。
「勇者アレス自身の言葉」
「はい」
ノアは頷いた。
「国葬は、王国が勇者アレスを物語に変える場です。そこでアレス様自身の言葉を出せば、少なくとも人々は耳を傾ける」
その時、作業室の扉が叩かれた。
全員が身構える。
グリムが扉に近づき、静かに開けた。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
傷だらけの顔。片腕に包帯。王国軍の古い外套。年は四十前後だろうか。
「レクター葬儀社か」
「どちら様ですか」
ノアが尋ねると、男は深く頭を下げた。
「元王国軍、アレス隊副官。ダリオ・クレイン」
ノアたちは顔を見合わせた。
「勇者アレス様の?」
「ああ」
ダリオは懐から小さな包みを取り出した。
「俺は、アレス隊で最後に生き残った一人だ。国葬の前に、これを渡したかった」
包みの中には、血のついた白い布があった。
そこには、二つの署名がある。
アレス・グラント。
ゼルド・ハイム。
和平文書だった。
ダリオは言った。
「俺は見た。勇者と魔王が、同じ机についたところを。握手したところを。そして、その夜、王国側の兵がアレスを刺したところを」
ノアは息を止めた。
証人が現れた。
ダリオは続けた。
「俺は逃げた。怖かった。隊の仲間も殺された。だが、国葬でアレス隊の名が美談に使われると聞いて、もう黙っていられなかった」
彼はノアを見た。
「葬儀師。アレス隊長を、嘘の英雄にしないでくれ」
ノアは深く頭を下げた。
「お預かりします」
これで、必要なものが揃いつつあった。
遺体の傷。
アレスの手紙。
和平文書。
副官の証言。
英雄管理局の制度記録。
ロアンの遺言。
国葬は、王国の最後の嘘になる。
そして同時に、死者の名を呼ぶ最初の場になる。




