第37話 局長オルガンの取引
脱出は、ぎりぎりだった。
グリムが兵士二人を押し戻し、ミレイが煙瓶を三本割り、エリシアが追跡封印を祈りで乱した。ノアは記録の束を抱えたまま、英雄管理局の裏口から外へ転がり出た。
王都の夜気が肺に刺さる。
「走って!」
ミレイに腕を引かれ、ノアは路地へ駆け込んだ。
背後で警笛が鳴る。
英雄管理局の灰色の建物が、闇の中で巨大な棺のようにそびえていた。
四人は入り組んだ裏道を抜け、グリムの古い工房へ逃げ込んだ。レクター葬儀社へ直接戻るのは危険だった。
工房の扉を閉めると、ミレイが床に座り込んだ。
「もう二度と英雄管理局には入りたくない」
「次は正面から招かれるかもしれない」
ノアが言うと、ミレイは睨んだ。
「冗談に聞こえないからやめて」
エリシアはすぐに記録を広げた。
持ち出せたものは多くない。
英雄管理局基本綱領の写し。
勇者死亡時の処理分類。
聖女制度連携記録の一部。
魔王指定効果測定の写し。
ルシアン・ヴェインの消去記録。
候補生処理記録の一部。
イザーク・レクターに関する処理番号。
そして、初代勇者団制度設計案の断片。
十分ではない。
だが、何もなかった昨日とは違う。
ミレイは記録を乾かしながら言った。
「これ、公表したら王都中がひっくり返るよ」
「だから、簡単には公表できません」
ノアは答えた。
エリシアが頷く。
「ロアン様の遺言だけでも大きすぎるのに、これを一度に出せば、民衆は混乱します。聖務庁も、王国軍も、英雄管理局も、同時に敵になります」
「すでに敵みたいなものじゃん」
ミレイが言う。
グリムは首を振った。
「敵にする範囲は選べ。全部を敵にすれば、守れるものも守れない」
ノアは記録を見つめた。
オルガンの言葉が耳に残っている。
死者の真実を背負う覚悟があるなら、次はそれを生者にどう渡すかを考えなさい。
その通りだった。
真実を手に入れることが目的ではない。
死者の名を返すには、生きている者に届かなければならない。
だが、届き方を間違えれば、生者を傷つける。
アルトの手紙が教えてくれた。
ユージンの空の棺が教えてくれた。
ガルディアの葬儀が教えてくれた。
真実は、扱い方を間違えると刃になる。
その時、工房の外で物音がした。
グリムが剣を取る。
扉の下から、一通の灰色の封筒が差し込まれた。
英雄管理局の封蝋。
ミレイが青ざめる。
「早すぎ」
ノアは封筒を拾い、封を切った。
中には短い文面。
明日、日没。
鐘楼広場北側、旧慰霊堂。
一人で来い。
オルガン・レイス。
「行くつもり?」
エリシアが即座に言った。
ノアは封筒を見つめる。
「話す必要があります」
「罠かもしれません」
「罠でしょう」
ミレイが叫ぶ。
「じゃあ行かないでよ!」
ノアは首を振った。
「彼は、今夜僕たちを完全には止めませんでした。記録も一部持ち出せた。理由を知りたい」
グリムが低く言う。
「一人では行かせない」
「一人で来いとあります」
「だから罠だ」
ノアは少し考えた。
「では、僕は一人で行きます。皆さんは、外から見張ってください」
「それ、一人じゃないじゃん」
ミレイが呆れたように言った。
翌日の日没、ノアは旧慰霊堂へ向かった。
鐘楼広場の北側にある、小さな石造りの建物だった。今は使われていない。昔の戦死者を慰霊する場所だったが、英雄管理局が新しい慰霊施設を作ってから閉鎖されたという。
中に入ると、オルガンが一人で待っていた。
祭壇も花もない。
ただ、古い石壁と、割れた祈りの像があるだけだった。
「来ると思っていた」
オルガンは言った。
「話とは何ですか」
ノアは距離を取って立つ。
オルガンは灰色の外套を脱ぎ、古い椅子に置いた。
「取引をしよう」
「取引?」
「君が持ち出した記録を、今は公表しない。ロアンの遺言も、地下記録庫の写しも、君の台帳も、すべてだ」
「代わりに?」
「イザーク・レクターの名誉を回復する」
ノアの呼吸が止まった。
オルガンは続ける。
「公式には、彼は病死した葬儀師だ。だが、記録を改めることはできる。王国英雄葬儀に多大な貢献をした者として、正式に顕彰する。レクター葬儀社は王国公認の英雄葬儀機関とする。君には局の協力葬儀師として地位を与える」
ノアは黙って聞いていた。
「さらに、ルシアン・ヴェインの名も限定的に回復しよう。魔王領で命を落とした勇者候補として、遺族向けの追悼記録に戻す。セオについても、身元不明者ではなく養護院児童として記録を修正する」
エリシアが聞いたら、どう思うだろう。
兄の名が戻る。
セオの名が戻る。
父が称えられる。
葬儀社は守られる。
魅力的な条件だった。
だからこそ、ノアは胸が冷えた。
「それは、真実ではありません」
「すべてを公表すれば真実になるのか?」
オルガンは言った。
「民衆は、初代勇者団の裏切りを知り、聖務庁の祈りを疑い、現役の勇者たちを疑う。魔王領への怒りと同時に王国への怒りも膨らむ。暴動が起きれば、最初に襲われるのは英雄管理局ではない。聖務庁の下級祈り手、勇者候補の家族、魔王領の避難民、そして君の葬儀社だ」
ノアは唇を噛んだ。
「私は、真実を消せと言っているのではない」
オルガンは少し声を落とした。
「時期を待てと言っている。君は若い。記録を保管し、少しずつ制度を変えればいい。私の側に来れば、それができる」
「あなたの側に?」
「死者を守りたいのだろう。なら、外から叫ぶより、中で書き換えを止める方が有効だ」
ノアの胸が揺れた。
英雄管理局の中に入る。
局の協力葬儀師となり、死因改ざんを止める。
少しずつ記録を正す。
それが本当に可能なら。
「あなたは、それを許すのですか」
「君が暴発しないなら」
「あなたは、死者の真実より公共の安定を優先する人です」
「そうだ」
「なら、僕が中に入っても、結局あなたの許す範囲でしか記録を直せない」
「それでも、今より多くの死者は救える」
それは、たぶん事実だった。
全部を救うか。
一部を確実に救うか。
ノアはまた、選ばされている。
オルガンは続けた。
「ノア・レクター。君は葬儀師だ。革命家ではない。王国を壊した先に、死者の安らぎがあるとは限らない」
「僕も、王国を壊したいわけではありません」
「なら、取引を受けろ」
旧慰霊堂に、長い沈黙が落ちた。
ノアは父の顔を思い出した。
もし父の名誉が回復されるなら。
父が王国に称えられるなら。
レクター葬儀社が守られるなら。
だが、父はそんなものを望んだだろうか。
父の手紙。
それでも、記録だけは残せ。
嘘に埋められた死者が、いつか本当の名で呼ばれる日のために。
ノアは顔を上げた。
「父が望んだのは、名誉ではありません」
オルガンの目がわずかに動く。
「父は、称えられるために記録を残したのではありません。王国公認の葬儀師になりたかったのでもありません。死者の名が、いつか本当の形で呼ばれるようにと願っただけです」
「理想論だ」
「はい」
ノアは認めた。
「でも、葬儀はいつも理想論です。死んだ人に、せめて安らかであってほしいと願う。届くかどうか分からない祈りを捧げる。もう戻らない人に、お帰りなさいと言う」
彼は静かに続ける。
「それでも、その理想を手放したら、僕は葬儀師ではいられません」
オルガンは目を伏せた。
「取引を拒むのか」
「はい」
「君の父の名誉も、ルシアンの記録も、セオの修正も、すべて失うかもしれない」
「偽りの名誉で戻された名前は、また別の棺に閉じ込められるだけです」
ノアは深く息を吸った。
「僕は、あなたと取引しません」
オルガンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「イザークなら、同じ答えをしただろう」
「なら、僕は父の息子でよかった」
その言葉に、オルガンの顔に一瞬だけ痛みに似たものが浮かんだ。
だがすぐに消えた。
「次は止める」
「分かっています」
「君が記録を公表しようとすれば、私は英雄管理局長として君の前に立つ」
「僕も、葬儀師として立ちます」
二人は、旧慰霊堂の中で向かい合った。
敵同士として。
そして、死者を扱う者同士として。




