第35話 地下記録庫へ
英雄管理局は、王都でいちばん静かな建物だった。
王城ほど高くはない。
聖務庁ほど白くもない。
軍本部ほど物々しくもない。
灰色の石で造られた四階建ての建物は、鐘楼広場の北側にひっそりと立っている。門には大きな紋章もなく、ただ小さな金属板に「王国英雄管理局」と刻まれているだけだった。
だが、ノアにはその建物が、どんな墓地よりも重く見えた。
ここで、勇者の死因が書き換えられる。
ここで、聖女の犠牲が美談に整えられる。
ここで、裏切り者の名が作られ、逃げた勇者が死者にされ、子どもたちが番号へ落とされる。
死者の棺は、葬儀社に届く。
だが、死者の物語は、ここで作られる。
「本当に正面から入るの?」
ミレイが小声で言った。
夜の王都は冷えていた。四人は英雄管理局の裏通りに身を潜めている。ノア、エリシア、グリム、ミレイ。いつもの面々だ。
ノアは首を振った。
「正面から入れば、すぐ捕まります」
「じゃあ、どうするの」
グリムが建物の裏手を指した。
「搬入口がある。遺体の出入りに使う扉だ」
エリシアが息を呑む。
「英雄管理局にも、遺体が運ばれるのですか」
「葬儀社へ送る前に確認するためだろう。死因を」
グリムの声は低かった。
死因を確認する。
いや、必要なら整えるために。
ノアは父の台帳を胸の内側に忍ばせていた。ロアンの遺言写しも、別の防水布に包んでいる。原本は葬儀社に隠した。持ち歩くには危険すぎる。
目的は一つ。
英雄管理局の地下記録庫に入り、王国が死者をどう管理してきたのかを示す記録を見つけること。
父の本当の死因記録。
ルシアンの消去記録。
勇者候補の処分記録。
ガルディアの魔王指定記録。
そして、初代勇者団から続く制度設計の証拠。
「警備は?」
ノアが尋ねると、ミレイが小瓶を見せた。
「眠り香を薄めたやつ。人によって効き目に差はあるけど、見張り二人くらいなら一時的にぼんやりさせられる」
「危険は?」
「かなり」
「使わない方向で」
「じゃあ何のために持ってきたの」
「非常用です」
ミレイは不満そうに瓶をしまった。
搬入口へ向かうと、古い鉄扉があった。扉の横には小さな鐘がついている。中から開ける仕組みだろう。
グリムが腰の道具袋から細い針金を取り出した。
「棺桶職人は、鍵開けもできるのですか」
エリシアが小声で聞くと、グリムは淡々と答えた。
「棺の鍵が開かなくなることもある」
「本当に棺の話ですか」
「昔は冒険者だった」
それ以上は説明しなかった。
数十秒後、鉄扉が小さく鳴って開いた。
中は暗い廊下だった。石床には荷車の跡が残っている。奥には、鉄と薬品と乾いた血の匂いが漂っていた。
ノアは足を踏み入れた瞬間、胸の奥に違和感を覚えた。
死者がいる。
棺の中ではない。
記録の中でもない。
建物そのものに、死の匂いが染みついている。
廊下の突き当たりに、遺体確認室があった。
作業台が三つ。壁には解剖器具と魔術器具が並び、棚には番号札付きの小箱が収められている。書類棚には「確認済」「整形済」「移送待ち」と分類された札。
エリシアが口元を押さえた。
「整形済……」
ミレイが棚を見て、顔をしかめる。
「死体の損傷を整えるって意味なら普通だけど、ここで言う整形は違うね」
ノアは一枚の処理票を手に取った。
対象、勇者候補。
公式死因、魔王軍襲撃。
実処理、訓練事故。
外傷調整済。
遺族通知、なし。
祈祷記録、不要。
備考、候補番号のみ保管。
ノアの手が震えた。
セオのような子どもが、何人もいた。
名前ではなく、候補番号。
遺族なし。
祈祷不要。
「ノアさん」
エリシアが別の棚を見つけた。
そこには、祈祷済みとされた者たちの写しがあった。リナの名もある。ルシアンの名もあった。
ルシアン・ヴェイン。
公式死因、魔王領偵察中死亡。
実処理、命令拒否。
北東方面廃礼拝堂にて死亡。
遺体、現地焼却。
関連児童逃亡、三名。
関係者監視継続。
記録区分、消去。
エリシアは、その紙を両手で持ったまま動けなかった。
「兄の……」
ノアはそっと彼女の横に立った。
「写しを取ります」
「はい」
声は震えていたが、折れてはいなかった。
ミレイは手早く記録を写し、必要な符号を覚えていく。彼女は軽い口調を完全に消していた。
「これ、全部持ち出したいけど、無理だね」
「必要なものを選びます」
ノアは言った。
その時、廊下の奥から足音がした。
グリムが手を上げる。
全員が息を潜める。
二人の局員が遺体確認室の前を通り過ぎた。
「次の候補群、また北区からか?」
「今度は地方の方が多いらしい。王都の養護院は少し騒がれたからな」
「葬儀社の件か」
「ああ。レクターだ。局長は泳がせているが、上は早く処理しろと言っている」
ノアは息を止めた。
上。
オルガンより上、あるいは局内の強硬派。
「局長も甘い。死者の記録ごときで国が揺れるはずがない」
「いや、だからこそ危険なんだろ。民は英雄の死には弱い。勇者が作り物だと知られたら、徴兵も献金も聖務庁の祈りも崩れる」
足音が遠ざかる。
ノアは心の中で、その言葉を刻んだ。
勇者が作り物。
局員たちは、知っている。
英雄管理局はただ死因を整える機関ではない。
勇者という物語を作り、維持し、死後まで管理する場所だ。
グリムが低く言った。
「急ぐぞ」
地下記録庫への階段は、遺体確認室の奥にあった。通常の職員用階段ではない。重い扉に、英雄管理局の紋章と封印がある。
エリシアが封印を見る。
「聖務庁式と王国軍式が混じっています」
「開けられますか」
「時間があれば」
ミレイが小瓶を取り出す。
「時間はなさそうだよ」
遠くで、別の足音が近づいてくる。
グリムが周囲を見た。
「三分」
エリシアは頷き、杖を封印に当てた。
白い光が浮かび、灰色の紋章にひびが入る。封印は抵抗するように震えた。エリシアの額に汗が滲む。
「この封印、祈りを拒みます」
「拒む?」
「死者のための祈りではなく、記録を閉じるための祈りです」
彼女の声に怒りが混じった。
「こんなものに、聖務庁の術を使うなんて」
光が強まる。
扉の封印が砕けた。
同時に、廊下の向こうから声が響く。
「誰だ!」
グリムが扉を開ける。
「走れ」
ノアたちは地下階段へ駆け込んだ。
背後で警報鐘が鳴る。
英雄管理局の建物全体が目を覚ます音だった。
階段を下り切ると、そこには広大な記録庫があった。
棚が、果てしなく並んでいる。
紙の棺。
名前を奪われた死者たちの墓地。
ノアは息を呑んだ。
ここに、王国の嘘が眠っている。
そして、そのすべてが今、開かれることを拒んでいた。




