第32話 初代勇者の遺言
鐘楼地下納骨堂へ入るには、夜を待つしかなかった。
昼間の鐘楼広場は人目が多すぎる。英雄管理局の巡回兵もいる。聖務庁の祈り手たちが慰霊の花を捧げに来ることもある。
夜半、広場の鐘が三度鳴った後、ノアたちは動いた。
ノア、エリシア、グリム、ミレイ。
四人は黒い外套をまとい、鐘楼の裏手へ回った。表向きの入口ではなく、古い石段の下に隠された小さな扉。父の鍵に刻まれた紋章と同じ印が、扉の金具に彫られている。
円の中の、折れた剣と鐘。
ノアは鍵を差し込んだ。
重い音を立てて、錠が回る。
扉の向こうから、冷たい空気が流れ出した。
土と石と、古い香油の匂い。
そして、長く閉じ込められていた死者の沈黙。
「入ります」
ノアが言うと、グリムが先に立った。
ミレイが小さな光石を掲げ、エリシアが後ろを確認する。
石段は地下へ続いていた。
壁には無数の名板が並んでいる。
だが、いくつかは削られていた。名前が消され、ただ空白の石だけが残っている。
エリシアが足を止めた。
「ここに、兄の記録も」
「探しましょう」
ノアは言った。
しかし、まず向かうべき場所は分かっていた。
父の弔辞に書かれていた。
初代勇者団最後の生存者。
終鐘の誓い。
ロアン。
地下の奥へ進むと、広い納骨堂に出た。
中央には大きな石棺がいくつも並んでいる。歴代勇者の棺だろう。棺の側面には華やかな碑文が刻まれていた。
魔王を討ちし者。
王国を救いし剣。
光のために命を捧げし英雄。
だが、奥の一角だけは違った。
そこには、装飾のない木棺が一つ置かれていた。
木材は古いが、手入れされている。棺の内側ではなく、蓋の表に小さく紋章が彫られていた。
折れた剣と鐘。
グリムが低く言った。
「俺が作った棺だ」
ノアは棺の前に立った。
胸が強く鳴る。
父が最後に葬った死者。
父が命をかけて守った遺言。
名前を奪われた英雄。
ノアは深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ロアン様」
そう言ってから、少し違うと思った。
この死者は、すでに父によって迎えられている。
ならば。
「お待たせしました」
ノアは棺に手を置いた。
「イザーク・レクターの息子、ノアです。父が閉じた棺を、開けに来ました」
蓋を開ける。
木が軋む音が、納骨堂に低く響いた。
棺の中には、老いた男の遺体が横たわっていた。
防腐処理は丁寧だった。三か月ほどではない。もっと長い時間が経っているのに、顔の輪郭は保たれている。白髪、深い皺、痩せた頬。胸元には、古びた布で包まれた筒が置かれていた。
ロアンの手は、その筒を守るように組まれている。
ミレイが静かに言った。
「お父さん、すごい処理をしてる。普通じゃない。遺言を守るために、遺体も崩れないようにしたんだ」
ノアは白手袋をはめた。
「失礼します」
ロアンの手から、布包みをそっと外す。
筒は金属製だった。表面には、初代勇者団の紋章と、かすかな文字。
終鐘の誓いを忘れるな。
ノアは筒を開けた。
中には、数枚の羊皮紙が入っていた。
古いが、保存状態はいい。父が防湿の魔術を施したのだろう。
ノアは最初の一枚を開いた。
私はロアン・アルバ。
初代勇者団の一人であり、王国が最後まで消し損ねた証人である。
エリシアが息を呑む。
ノアは読み続けた。
我々は、魔王を討つために集められたのではない。
最初は、戦を終わらせるために集まった。
百年前、王国と魔族領は長く争っていた。
だが、争いの理由は憎しみではなく、土地と鉱脈と水路だった。
民は疲れ、兵は死に、王たちは終わらせる方法を探していた。
その時、王国は一つの物語を作った。
魔王という絶対悪。
それを討つ勇者という絶対善。
ノアの手が震える。
羊皮紙の文字は、静かに王国の根を揺らしていた。
初代魔王は、交渉相手だった。
我々は、彼を討つためではなく、和平の証人となるために選ばれた。
だが、和平は王国の一部にとって不都合だった。
戦争によって富を得る者。
恐怖によって民をまとめる者。
勇者という象徴を必要とする者。
彼らは和平を壊した。
エリシアは顔を青ざめさせていた。
「魔王は、最初から敵ではなかった……?」
ノアは次の一枚を読む。
最終会談の日、王国側の者が魔王を殺した。
そして、その罪を魔王側に押しつけた。
我々初代勇者団は、真実を知った。
だが、我々は英雄にされた。
魔王を討った勇者として。
王国を救った剣として。
真実を語ろうとした仲間は消された。
従った者は地位を与えられた。
沈黙した者は、長く生きた。
私は沈黙した。
その一文だけ、文字が深く刻まれていた。
ノアは、ロアンの顔を見た。
老いた英雄。
証人。
沈黙して生き延びた者。
私は多くの死者を裏切った。
魔王を。
和平を望んだ王国兵を。
真実を語ろうとして殺された仲間を。
そして、勇者という名に縛られて死んだ、後の子どもたちを。
勇者制度は、我々の沈黙の上に作られた。
勇者は神に選ばれたのではない。
王国が必要とする時に作られ、必要がなくなれば美しい死を与えられる。
魔王も同じだ。
敵が必要な時に作られ、倒された後は次の敵の土台となる。
エリシアが小さく呟いた。
「ガルディア様も……」
ノアは頷いた。
百年前の仕組みが、今も続いている。
魔王を作り、勇者を作り、死因を書き換え、民に物語を与える。
ロアンの遺言は、さらに続く。
私は晩年、イザーク・レクターという葬儀師に出会った。
彼は、私を英雄としてではなく、一人の死に損ないとして見た。
私は彼に、ようやく真実を話した。
彼は言った。
「それなら、あなたの死後も記録を残しましょう」と。
私は恐れた。
彼が殺されると分かっていたからだ。
だが、彼は笑った。
「死者が頼んできたことを断る葬儀師は、うちにはいません」と。
ノアの目が熱くなる。
父の声が、そのまま聞こえる気がした。
最後の一枚には、別の筆跡で追記があった。
父の字だった。
ロアン・アルバ。
初代勇者団最後の生存者。
公式記録なし。
遺言、棺内へ封入。
公開時期、未定。
ノアへ。
この記録を読む時、お前は私を恨むかもしれない。
それでいい。
だが、怒りでこの遺言を使うな。
これは王国を壊すための刃ではない。
死者の名を返すための灯りだ。
ノアは羊皮紙を胸に抱えた。
「父さん……」
その時、納骨堂の奥から足音が聞こえた。
ひとつではない。
複数。
グリムが剣を抜く。
ミレイが光石を消しかける。
だが、遅かった。
灰色の外套をまとった男が、石棺の影から現れた。
オルガン・レイス。
その背後には、英雄管理局の兵士たち。
オルガンは、開かれたロアンの棺を見た。
「ついに開けたか」
ノアは遺言を握りしめた。
「あなたは、知っていたのですね」
「もちろん」
オルガンは静かに言った。
「その棺を閉じさせたのは、私だ」




