第31話 父の最後の仕事
鐘楼の鐘は、王都のどこにいても聞こえる。
朝を告げる鐘。
昼を告げる鐘。
葬儀を告げる鐘。
英雄の名が刻まれる時にも、死者の名が消される時にも、同じように鳴る。
ノアは、レクター葬儀社の作業室で古い鍵を見つめていた。
父が残した木箱に入っていた鍵。
円の中に、折れた剣と鐘の紋章。
鍵の柄には、小さくこう刻まれている。
鐘楼地下納骨堂。
そこには、父が葬ったという「初代勇者団最後の生存者」の棺がある。
そして、ルシアン・ヴェインの消去記録もある。
エリシアの兄。
ノアの父。
王国が最初に消した英雄。
すべてが、鐘楼の地下へ向かっている。
だが、無計画に入れる場所ではなかった。
鐘楼地下納骨堂は英雄管理局の管理区域だ。普段は閉鎖され、出入りできるのは局の職員と、一部の聖務庁関係者だけ。王国の公式説明では、歴代勇者の遺品や慰霊碑が眠る聖域とされている。
しかし、これまでの記録が示すものは違う。
そこは、都合の悪い死者を集める場所。
名前を奪われた者たちの、沈黙の保管庫。
「鐘楼に行く前に、もう一つ確認したいことがあります」
ノアは言った。
作業室には、エリシア、グリム、ミレイが集まっている。机には、父イザークの弔辞写し、毒針の検査記録、ダンの証言、ルシアンの祈祷簿写しが並んでいた。
ミレイが薬瓶を指先で転がす。
「まだ確認するの? 鍵もあるし、行けば何か分かるんじゃない?」
「行けば戻れないかもしれません。父が何をしたのか、もう少し知っておきたい」
グリムが低く言った。
「俺に聞きたいんだろう」
ノアは頷いた。
「父が最後に葬った棺を作ったのは、グリムさんだと聞きました。まだ話していないことがあるはずです」
作業室が静まる。
グリムはしばらく黙っていた。
やがて、壁にもたれていた体を起こした。
「イザークに口止めされていた」
「父に?」
「ああ。お前が自分で三つの嘘の棺を開けるまで、話すなと」
三つの嘘の棺。
勇者カイル。
聖女リナ。
魔法使いアルト。
父は、ノアがそこへたどり着くことを予想していた。
いや、予想ではない。願っていたのかもしれない。自分が残したものを継ぐなら、死者の嘘を見抜ける葬儀師になってからにしてほしいと。
「父は、なぜそこまで」
「守りたかったんだろう」
グリムの声は低い。
「お前を。死者を。どっちもだ」
彼は窓の外の鐘楼を見た。
「イザークが最後に俺の工房に来たのは、死ぬ七日前だった。顔色が悪かった。手には、棺の寸法を書いた紙と、古い紋章の写しを持っていた」
「初代勇者団の紋章ですね」
「そうだ。折れた剣と鐘。昔は“終鐘の誓い”と呼ばれていたらしい」
エリシアが尋ねる。
「終鐘の誓い?」
グリムは頷く。
「初代勇者団が、最初の魔王討伐へ向かう前に立てた誓いだ。戦いを終わらせるために剣を取る。勝利の鐘ではなく、最後の戦の鐘を鳴らすために、とな」
ノアはその言葉を胸の中で反芻した。
最後の戦の鐘。
今の王国が語る勇者像とは違う。
今の勇者制度は、次の災厄、次の魔王、次の戦争を必要としているように見える。
だが、初代勇者団は戦いを終わらせるために剣を取った。
「父が葬ったのは、その初代勇者団の一人だったのですか」
「ああ」
「名前は」
グリムは首を振った。
「棺を作った時点では知らなかった。だが、イザークが一度だけ口を滑らせた」
ノアは息を呑む。
「何と」
「“ロアンは、ようやく帰れる”と」
ロアン。
初代勇者団最後の生存者。
父が葬った名前のない英雄。
初めて、その名が現れた。
エリシアが小さく呟く。
「ロアン……歴史書にはありません」
「消された名だろうな」
グリムは続けた。
「イザークは言った。ロアンは英雄として死ななかった。証人として死んだ、と」
「証人」
「王国が勇者制度をどう作ったのか。初代魔王討伐の真実が何だったのか。そのすべてを知る最後の一人だった」
ノアは父の弔辞を開いた。
あなたは、初代勇者団最後の生存者。
王国が最初に作った英雄であり、王国が最初に消した証人。
「父は、ロアン様の遺言を預かっていたのですね」
「たぶんな」
「その遺言は」
「棺の中だ」
グリムの答えは短かった。
作業室の空気が変わる。
「棺の中?」
「ああ。イザークは言った。遺言は紙で残しても奪われる。人に預けても殺される。だから、死者と一緒に閉じる、と」
ノアは鍵を握った。
鐘楼地下納骨堂にある棺。
その中に、ロアンの遺言がある。
「なぜ父は、その場で公表しなかったのでしょう」
エリシアが尋ねた。
グリムは少し目を伏せた。
「公表すれば、ノアが殺されるからだ」
ノアは動けなくなった。
「僕が?」
「イザークは独り身じゃなかった。お前がいた。ロアンの遺言を世に出せば、英雄管理局はイザークだけでなく、お前も狙う。だから一度、棺に隠した」
「でも、父は殺された」
「それでも、お前は生き残った」
その言葉は、優しくも残酷だった。
父は真実を棺に閉じた。
ノアを守るために。
しかしその結果、父自身は殺された。
ノアは胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
「父は、僕に何も言ってくれませんでした」
声が震えた。
「僕は父の葬儀師だったのに、父の死因さえ知らなかった。父が何を背負っていたのかも、誰を葬ったのかも」
「言えば、お前は止めただろう」
グリムが言う。
「止めたかったです」
ノアは即答した。
「父が殺されると分かっていたなら、止めました。記録なんて残さなくていい。棺なんて閉じていい。父に生きていてほしかった」
作業室が静まり返った。
ノア自身、その言葉を口にして初めて気づいた。
死者の真実を追う葬儀師としてではなく、息子としての本音。
父には、正しく死んでほしかったのではない。
死なないでほしかった。
ミレイが静かに言った。
「それが普通だよ」
ノアは目を伏せた。
父の手紙には、こうあった。
葬儀師としてではなく、息子として考えろ。
父は分かっていたのだ。
ノアが死者のためなら進んでしまうことを。
だから、一度立ち止まらせたかったのだ。
「それでも、父は記録を残した」
エリシアが言った。
「ノアさんに背負わせたいからではなく、いつか誰かが必要とするから」
ノアは頷いた。
「はい」
怒りはまだある。
父を奪われた怒り。
何も知らされなかった寂しさ。
自分が守られていたことへの悔しさ。
だが、その怒りだけで鐘楼地下へ行けば、父の言葉に背く。
復讐のために棺を開けるな。
怒りのために弔辞を読むな。
ノアは鍵を机に置いた。
「ロアン様の棺を開けます」
誰も止めなかった。
「でも、父の仇を取るためではありません」
ノアは父の弔辞を見つめた。
「父が守った記録を、死者の言葉として受け取るためです」
グリムは少しだけ口元を緩めた。
「なら、俺も行く」
ミレイが手を上げる。
「私も。遺体の状態を見る人間は必要でしょ」
エリシアも頷いた。
「兄の記録も、そこにあります。私も行きます」
ノアは三人を見た。
一人で抱えようとしていた棺は、もう一人ではなかった。
それでも、鐘楼地下へ向かう道は重い。
父が最後に閉じた棺を、息子が開けに行く。
ノアは古い鍵を手に取った。
鐘楼の鐘が、遠くで鳴っていた。
まるで、待っていると告げるように。




