第30話 兄の名を呼ぶ葬儀
ルシアン・ヴェインの遺体は、なかった。
墓もない。
棺もない。
王国の記録には、魔王領偵察中に死亡とある。
聖務庁の祈祷簿には、名誉祈祷済みとある。
英雄管理局の消去記録は、鐘楼地下納骨堂にあるらしい。
だが、今すぐそこへ入ることはできない。
マルクに問い詰めたことで、エリシアは聖務庁から追われる立場になった。正式な拘束命令が出るのも時間の問題だった。レクター葬儀社も、これまで以上に監視されるだろう。
それでも、エリシアは言った。
「兄の葬儀をしたいのです」
夜の葬儀社。
作業室の中央には、空の小さな棺が置かれていた。
グリムが作ったものだった。
遺体を納めるためではない。遺品と名を納めるための棺。
棺の中には、三つのものが入っている。
エリシアと対になった、ルシアンの割れたペンダント。
ダンが隠していた番号札、一二。
そして、選定院での記録の写し。
ノアは棺を見つめた。
空の棺は、ユージン以来だった。
だが、あの時とは違う。
ユージンの空の棺は、生きるためのものだった。
ルシアンの空の棺は、失われた死を取り戻すためのものだった。
参列者は少なかった。
ノア。
エリシア。
グリム。
ミレイ。
ダン。
そして、密かに選定院を抜け出してきたトマとミナ。
二人は、ルシアンのことを直接は知らない。
それでも、彼が逃がそうとした子どもたちの一人が、自分たちだったかもしれないと知って、来たいと言った。
エリシアは棺の前に立っていた。
聖衣は着ていない。
白い簡素な服に、兄と対のペンダントを握っている。
ノアは弔辞を持った。
「本当に、僕が読んでよいのですか」
エリシアは頷く。
「兄を、葬儀師として迎えてください。そのあと、私は妹として祈ります」
ノアは深く一礼した。
棺の前に立つ。
「ルシアン・ヴェイン様」
その名を呼んだ瞬間、エリシアの肩が震えた。
長い間、祈りの記録の中でしか呼ばれなかった名。
魔王に殺された勇者候補として処理された名。
消去記録へ移された名。
その名が、ようやく葬儀の場で呼ばれた。
「あなたの遺体は、ここにはありません。あなたの墓も、正式な死因記録も、まだ見つかっていません」
ノアの声は静かだった。
「ですが、あなたを知る者たちの証言がここにあります。あなたが選定院で下の子どもたちを守っていたこと。命令に背き、逃がそうとしたこと。魔王領の村を焼く任務を拒んだこと。そして、子どもたちを守ろうとして命を落としたこと」
トマが拳を握りしめている。
ミナは唇を噛んでいた。
「王国の記録は、あなたを魔王に殺された勇者候補としました。ですが、今日ここでは、あなたをそのようには送りません」
ノアはエリシアを見る。
「あなたは、誰かを見捨てられなかった人でした。命令よりも、目の前の子どもを選んだ人でした。その優しさを、弱さとも反逆とも呼ばせません」
エリシアの涙が落ちる。
「あなたの名を、ここに戻します」
ノアは棺に向かって一礼した。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
その言葉で、エリシアは崩れるように膝をついた。
何年も待っていた言葉だったのだろう。
兄が帰ってきた。
遺体はない。
声もない。
けれど、名だけは帰ってきた。
エリシアは棺に手を置き、震える声で語りかけた。
「兄さん」
それは祈りではなかった。
ただの呼びかけだった。
「遅くなって、ごめんなさい」
作業室の誰も動かなかった。
「私、ずっと兄さんは魔王に殺されたのだと思っていました。王国のために勇敢に死んだのだと思っていました。そう思えば、寂しさをきれいにできたから」
彼女はペンダントを握る。
「でも、違った。兄さんは、子どもたちを逃がそうとしていた。命令を拒んで、誰かを守ろうとして、王国に消された」
涙が止まらなかった。
「怖かったでしょう。痛かったでしょう。帰りたかったでしょう。私のことも、少しは思い出してくれたでしょうか」
ノアは目を伏せた。
エリシアの声は、聖務庁で学んだどんな祈りよりも、死者に近かった。
「兄さん。私はもう、王国の祈りだけを信じません。聖務庁の言葉だけで、死者を送ったりしません」
彼女は杖を持っていなかった。
だから、両手を胸の前で組んだ。
「あなたが守ろうとした子どもたちの名を、私は探します。リナのように使い潰された子も、セオのように番号にされた子も、ガルディア様のように敵として葬られた人も、もう見ないふりをしません」
彼女は深く頭を下げた。
「兄さん。どうか、今度こそ妹の祈りを聞いてください」
そして、ゆっくりと言った。
「あなたは反逆者ではありません。私の兄です」
その一言で、空の棺の中に何かが満ちたような気がした。
死体はない。
骨もない。
だが、ルシアンという名が、ようやくそこに置かれた。
葬儀のあと、トマが棺のそばへ来た。
「俺、ルシアンさんみたいになれるかな」
エリシアは涙を拭って、首を振った。
「ならなくていいです」
トマは驚いた顔をする。
「え?」
「誰かを守るために死ななくていい。まず、生きてください」
トマは何も言えなくなった。
ミナが小さく頷く。
「私も、生きたい」
「はい」
エリシアは二人の手を握った。
「生きてください。それが、兄の続きです」
ノアはその光景を見ながら、胸の奥に静かな熱を感じていた。
この葬儀は、ルシアンのためだけではなかった。
エリシアが兄の死を受け入れるためだけでもない。
死者の選択を、生者がどう受け継ぐか。
その始まりだった。
夜更け、参列者が帰った後、ノアは台帳を開いた。
ルシアン・ヴェイン。
公式記録、魔王領偵察中に死亡。
実際、選定院で命令拒否。
子どもたちの逃亡を支援。
北東方面特別任務へ転用。
廃礼拝堂にて、王国兵の槍により死亡した可能性。
遺体未回収。
鐘楼地下納骨堂に消去記録あり。
葬儀、遺品による空棺葬。
ノアは最後の一文を書いた。
彼は、反逆者ではなかった。
誰かを見捨てられなかった兄だった。
エリシアは隣で、その文字を見ていた。
「ありがとうございます」
「まだ終わっていません」
「はい」
彼女は頷いた。
「兄の遺体も、正式な記録も、まだ見つかっていません。マルクも、英雄管理局も、きっとこのままにはしない」
「鐘楼地下納骨堂へ行く必要があります」
ノアは机の引き出しから、父の残した古い鍵を取り出した。
円の中に、折れた剣と鐘。
初代勇者団の紋章。
「そこには、父が葬った初代勇者団最後の生存者の棺もあります。ルシアン様の消去記録もある」
エリシアは鍵を見つめる。
「すべて、そこへ向かっているのですね」
「はい」
ノアは鍵を握った。
「でも、今夜はここまでです」
エリシアが少しだけ笑った。
「葬儀師らしいですね」
「死者を送った夜に、次の棺を急いで開けるのは失礼ですから」
彼女は棺の前に立ち、もう一度ペンダントを置いた。
「おやすみなさい、兄さん」
それは、妹の声だった。
聖女見習いではなく、王国の祈り手でもなく、ただ兄を失った一人の妹の声。
そしてその夜、エリシアの祈りは静かに形を変えた。
王国のための祈りから、死者の名を取り戻すための祈りへ。
ノアは作業室の灯りを落とす前に、空の棺へ一礼した。
「おやすみなさい、ルシアン様」
外では、鐘楼の鐘が鳴っていた。
その地下に眠る棺たちが、次は自分たちの番だと告げているように。




