第29話 聖女の祈りが壊れる
マルク・セインは、聖務庁の中庭にいた。
白い柱廊に囲まれた、静かな庭だった。中央には小さな噴水があり、聖女像が水面を見下ろしている。祈りの場というより、上位聖職者たちが密談に使う場所だった。
エリシアは柱の陰から、その男を見ていた。
マルクは四十代前半。細い顔に、整えられた髭。聖務庁の白い法衣をまとっているが、胸元には英雄管理局との連絡役を示す灰色の飾り紐がある。
彼は、リナを戦場で使い潰した可能性のある監督官。
そして、ルシアンの「北東方面特別任務」に関わっていた人物。
エリシアは、手の中のペンダントを握りしめた。
ノアは隣で囁いた。
「無理に話す必要はありません」
「話します」
「怒りで問い詰めると、はぐらかされます」
「分かっています」
本当に分かっているのか、自分でも分からなかった。
兄の記録。
リナの日記。
セオの番号。
ガルディアの拘束痕。
すべてが胸の中で絡まり、祈りの言葉を壊していく。
エリシアは、これまで聖務庁で教えられてきた。
怒りは祈りを濁す。
憎しみは魂を曇らせる。
聖女は許しをもって死者に向き合うべきだと。
だが、今のエリシアには、許すという言葉がひどく空っぽに聞こえた。
許す前に、知らなければならない。
知らないままの許しは、ただの忘却だ。
エリシアは柱の陰から出た。
「マルク監督官」
マルクは振り返った。
一瞬、目が鋭くなった。
だがすぐに、穏やかな笑みを浮かべる。
「エリシア・ヴェイン。祈祷制限中の君が、私に何か?」
「兄のことで、お聞きしたいことがあります」
「兄?」
「ルシアン・ヴェインです」
マルクの表情は崩れなかった。
「懐かしい名だ。勇者候補として立派に戦い、魔王領で命を落としたと記憶している」
「嘘ですね」
エリシアは言った。
その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐ出た。
マルクの笑みが少しだけ薄くなる。
「聖務庁の者が、記録を嘘と呼ぶのか」
「記録が嘘なら、そう呼びます」
ノアが一歩後ろに立っている。
グリムは中庭の入口で見張っていた。
マルクはノアに視線を移した。
「レクター葬儀社か。最近、死者を騒がせる葬儀師として名を聞く」
「死者を騒がせているのは、記録を書き換える方々です」
ノアが静かに返す。
マルクは笑った。
「若いな」
そしてエリシアを見る。
「ルシアンの何を知りたい」
「兄は、選定院で子どもたちを逃がそうとしたのですか」
「さあ」
「英雄管理局の馬車に乗せられたのですか」
「十年前のことだ。記憶が曖昧でね」
「北東方面特別任務とは何ですか」
マルクの目が、わずかに細くなった。
「どこでその言葉を」
「答えてください」
「君は、自分が何を尋ねているのか分かっていない」
また、それだ。
知らない方がいい。
調べない方が幸せだ。
分かっていない。
エリシアの中で、何かが切れた。
「分かっていないのは、あなたです」
静かな声だった。
「兄は私の家族です。リナは私の友人です。セオは名前を奪われた子どもです。あなた方にとっては記録の一行でも、私たちにとっては人です」
マルクの表情が少し歪んだ。
「感情論だ」
「葬儀も祈りも、感情を持つ人間のためにあるものです」
エリシアはペンダントを取り出した。
「これは、兄が残したものです。選定院の裏門で見つかりました。兄は魔王に殺されたのではありません。王国に連れていかれた」
マルクはペンダントを見た。
その目に、ほんの一瞬だけ、面倒なものを見る色が浮かんだ。
「ルシアンは、優秀な候補生だった」
彼はようやく言った。
「だが、勇者には向かなかった。優しすぎた。命令の意味を理解しなかった」
「命令とは」
「魔王領の村を焼く任務だ」
エリシアの呼吸が止まる。
ノアも表情を硬くした。
マルクは、淡々と続けた。
「北東方面では、魔王領と王国領の境界が曖昧だった。敵に食糧を渡す村もあれば、魔族を匿う村もあった。戦線を維持するには、境界の村を整理する必要があった」
「整理……」
エリシアの声が震える。
「兄は、それを拒んだのですね」
「彼は、敵味方の区別がつかなかった。子どもを逃がそうとした。任務前に情報を漏らし、候補生数名を逃がした」
「それで処分したのですか」
「処分ではない。転用だ」
マルクの声は冷たかった。
「反抗的な候補生でも、使い道はある。魔王領へ送り、交渉の餌にした。彼は魔族側に同情していたからな。囮には適していた」
エリシアの顔から血の気が引いた。
「囮……?」
「魔王側の抵抗勢力を引き出すためだ。彼を使えば、逃げた子どもたちや魔族の保護者が動くと見込まれた」
ノアは一歩前へ出た。
「ルシアン様は、どこで亡くなったのですか」
マルクはノアを見た。
「君たちは死因を知りたがる。まるで、それで死者が救われるかのように」
「少なくとも、嘘の死因よりは」
マルクは肩をすくめた。
「北東の廃礼拝堂だ。魔族側の避難民が隠れていた場所。ルシアンはそこで、王国軍の突入を止めようとした」
エリシアは声を出せなかった。
「彼は、どちら側にも立てなかった。王国の命令にも従えず、魔族側の完全な味方にもなれず、最後まで子どもたちを逃がそうとした」
マルクは淡々と告げた。
「結果、王国兵の槍を受けた」
世界から音が消えた。
噴水の水音も、鳥の声も、遠くの祈りの鐘も、何も聞こえない。
エリシアの中で、長い間守ってきた祈りが壊れた。
兄は魔王に殺されたのではない。
王国の兵に殺された。
子どもたちを逃がそうとして。
命令を拒んで。
誰かを守ろうとして。
エリシアは杖を握りしめた。
「なぜ、葬ってくれなかったのですか」
それは問いというより、悲鳴だった。
「なぜ、兄の遺体を返してくれなかったのですか。なぜ、名前を祈りの中から消したのですか」
マルクは初めて、わずかに苛立ちを見せた。
「反逆者を英雄にできるわけがない」
「兄は反逆者ではありません!」
中庭に、エリシアの声が響いた。
「兄は、子どもを守ろうとしただけです!」
マルクは冷ややかに言った。
「その甘さが、勇者制度を危うくする。勇者は、救う相手を選んではならない。王国が敵と定めたものを斬れる者だけが、勇者になれる」
エリシアは震えていた。
ノアは彼女の前に出た。
「十分です」
「そうだな。これ以上聞けば、彼女は聖務庁には戻れない」
「もう、戻る必要はありません」
エリシアが言った。
ノアが振り返る。
彼女は泣いていた。
だが、崩れてはいなかった。
「私は、兄を反逆者とは呼びません。リナを殉教者としてだけ祈りません。セオを番号では呼びません。ガルディア様を魔王としてだけ見ません」
彼女はマルクを見た。
「あなた方の祈りは、もう信じません」
マルクはため息をついた。
「愚かな」
その瞬間、中庭の入口から足音が近づいた。
聖務庁の衛兵。数人。
マルクが呼んでいたのだ。
「エリシア・ヴェイン。君は聖務庁の秩序を乱し、虚偽の情報に基づいて監督官を脅迫した。拘束する」
グリムが前に出る。
ミレイが、どこからか煙玉のような瓶を投げた。
「だから言ったじゃん、煙は役に立つって!」
瓶が割れ、白い煙が中庭を覆う。
衛兵たちが咳き込む。
ノアはエリシアの手を掴んだ。
「走ります!」
エリシアは頷いた。
三人は柱廊を抜け、聖務庁の裏門へ向かった。
背後でマルクの声が響く。
「逃げても、祈りの場はもう君を受け入れない!」
エリシアは振り返らなかった。
受け入れられなくてもいい。
彼女の祈りは、もう聖務庁のためには戻らない。




