第27話 ルシアンの痕跡
エリシアは、兄の声を忘れかけていた。
顔は覚えている。
細い金髪。少し困ったように笑う目元。エリシアが泣くと、自分の袖で涙を拭いてくれた手。
けれど、声だけが曖昧だった。
大丈夫だよ、と言われた気がする。
すぐ帰る、と言われた気もする。
あるいは、何も言わなかったのかもしれない。
王立養護院の門の前で別れた日の記憶は、いつも途中で途切れる。
兄ルシアン・ヴェインは、勇者候補として王都北区の選定院へ送られた。
その後、魔王討伐任務中に死亡したと、聖務庁から知らされた。
遺体は戻らなかった。
葬儀もなかった。
ただ、祈りの場で名前が一度読まれた。
それだけだった。
エリシアは長い間、それを受け入れてきた。
兄は勇敢に死んだのだと。
魔王に殺されたのだと。
そう信じなければ、幼い自分は悲しみの置き場所を見つけられなかった。
だが、セオの葬儀を終えた今、その信じてきた物語はもう保てなかった。
王国は、子どもの名前を消す。
番号で呼び、選定し、役に立たなければ記録から外す。
ならば、兄も同じように消されたのではないか。
その疑いは、エリシアの胸の中で日ごとに大きくなっていた。
「記録室へ?」
ノアが尋ねると、エリシアは頷いた。
レクター葬儀社の作業室には、朝の光が差し込んでいる。机の上には、セオの葬儀記録と、王立養護院で集めた証言の写しが置かれていた。
「聖務庁の地下記録室に、勇者候補の祈祷記録があります。正式な戦死記録ではなく、祈りの依頼記録です」
「葬儀ではなく?」
「はい。遺体が戻らなかった者、戦場で行方不明になった者、名誉ある死とされた者たちに対して、聖務庁が祈りを捧げた記録です。兄の名も、そこに一度だけあったはずです」
ノアは少し考えた。
「危険です。あなたはもう聖務庁から警戒されています」
「だからこそ、今しかありません」
エリシアの声は静かだった。
「正式に止められる前に、記録を見ます」
グリムが壁際で腕を組んだまま言った。
「一人で行くな」
「もちろんです」
エリシアはノアを見る。
「ノアさんに、同行してほしいのです」
「僕が聖務庁へ?」
「葬儀記録確認の名目なら、入れます。リナの件で、あなたは聖務庁にも知られています。歓迎はされないでしょうが」
「それは歓迎より不安ですね」
ミレイが薬瓶を整理しながら言った。
「私は外で待つ。何かあったら煙を出して。逃げる準備だけはしておくから」
「煙?」
「聖務庁の香炉にちょっと細工すれば、礼拝堂中が咳き込む程度の煙なら」
「しないでください」
ノアが止めると、ミレイは不満そうに肩をすくめた。
「念のためだよ」
その日の午後、ノアとエリシアは聖務庁へ向かった。
白い尖塔が並ぶ建物。
王都の中心にありながら、どこか現実から切り離されたような静けさがある。床は磨かれ、壁には聖女たちの絵が掛けられ、空気には香油の匂いが漂っていた。
エリシアは聖衣を着ていた。
久しぶりに見る正式な姿だった。
だが、彼女の顔には以前のような従順な緊張はない。白い衣をまといながらも、その中身はもう、ただ命令を待つ聖女見習いではなかった。
受付の修道士は、エリシアを見るなり顔を曇らせた。
「エリシア・ヴェイン。あなたは現在、祈祷奉仕を制限されているはずです」
「本日は奉仕ではありません。過去の祈祷記録を確認しに来ました」
「許可は」
「リナ・メイベルの葬儀記録に不備がありました。レクター葬儀社との照合が必要です」
エリシアは迷いなく言った。
半分は本当だった。
リナの死因は、公式記録と違っている。聖務庁の記録にも不備がある。
ただ、今日の目的はそこだけではない。
修道士は不審そうにノアを見たが、葬儀社の名を聞くと渋々通行証を出した。
地下記録室へ続く階段は、ひどく冷えていた。
石の壁には小さな灯りが並び、奥へ進むほど香油の匂いが薄くなっていく。代わりに、紙と埃と古いインクの匂いが強くなった。
記録室の扉には、聖務庁の紋章と封印がある。
エリシアは祈りの杖をかざした。
淡い光が走り、封印が解ける。
「聖女見習いでも、開けられるのですか」
ノアが聞くと、彼女は少し苦笑した。
「昔は、記録整理をよく任されていました。誰もやりたがらない仕事でしたから」
扉が開く。
中には、壁一面の棚があった。
祈祷記録。
戦地慰霊記録。
聖女候補派遣記録。
名誉戦死者祈祷簿。
行方不明者追悼簿。
ノアは棚を見上げた。
ここにも、死者がいる。
棺ではなく、紙の中に。
名前だけになり、祈りの言葉だけを与えられた死者たち。
エリシアは迷わず奥へ進んだ。
「十年前の勇者候補祈祷簿は、このあたりです」
古い台帳を取り出す。
革表紙は乾き、角は擦れていた。
エリシアは慎重にページをめくる。
いくつもの名前が並んでいた。
勇者候補。
魔王討伐予備任務。
戦死。
行方不明。
魔王の呪い。
名誉祈祷済み。
ノアは眉をひそめた。
同じような言葉が何度も繰り返されている。
死因が違うはずの子どもたちが、まるで同じ型に押し込まれるように記録されていた。
エリシアの指が止まった。
ルシアン・ヴェイン。
彼女は声を出さなかった。
ただ、その名に指を置いたまま、動けなくなった。
ノアは隣から記録を読む。
ルシアン・ヴェイン。
勇者候補。
北東方面予備任務。
魔王領偵察中、敵襲により死亡。
遺体未回収。
名誉祈祷済み。
その下に、赤い印が押されていた。
記録移管済。
「移管?」
ノアが呟く。
エリシアは唇を震わせた。
「聖務庁から、別の部署へ記録が移されたという意味です」
「どこへ」
ページの端に、小さな記号があった。
HMB。
英雄管理局。
ノアは息を呑んだ。
エリシアも、その記号を知っていたのだろう。顔色が変わる。
「兄の記録は、聖務庁には残っていない」
「英雄管理局へ移された」
「なぜ、ただの戦死者の記録が」
答えは、二人とも分かっていた。
ただの戦死ではないからだ。
エリシアは次のページをめくろうとして、指を止めた。
ルシアンの記録欄の下に、薄く削られた跡がある。羊皮紙の表面を刃でこすり、文字を消した跡。
ノアはランプを近づけた。
削られた文字はほとんど読めない。
だが、かすかに残ったインクがある。
命令拒否。
第七候補群。
移送。
エリシアの息が止まる。
「命令拒否……」
その時、記録室の奥で物音がした。
ノアが振り返る。
棚の影に、人影がある。
白い聖務庁の服。
だが、顔はフードで隠れていた。
「誰ですか」
ノアが声をかけると、その人影は逃げようとした。
グリムがいれば止められただろう。だが、ここにいるのはノアとエリシアだけだ。
エリシアが杖をかざす。
「待ってください!」
光が走り、人影の足元に小さな結界が展開する。
相手は転び、フードが外れた。
若い修道士だった。受付にいた者ではない。顔は青ざめている。
「やめてください、私は」
「何をしていました」
エリシアの声が厳しくなる。
修道士は震えていた。
「私は、命令で……」
「誰の命令ですか」
修道士は答えない。
ノアは彼の手に握られた紙を見た。
古い記録の写しだった。
そこには、ルシアン・ヴェインの名がある。
「それを、どこへ持っていくつもりでしたか」
修道士は唇を噛む。
「英雄管理局へ。あなた方が記録を見たら、すぐ報告するようにと」
やはり見張られていた。
エリシアはさらに問いかける。
「兄の記録について、何か知っていますか」
「知りません」
「本当に?」
「私が知っているのは、地下保管庫に移された写しがあるということだけです」
「どこの」
修道士はノアを見た。怯えた目だった。
「鐘楼地下納骨堂」
ノアの胸が強く脈打った。
父の鍵。
初代勇者団最後の生存者。
鐘楼地下納骨堂。
そこに、ルシアンの記録もある。
「なぜ、聖務庁の祈祷記録が納骨堂に?」
修道士は首を振った。
「分かりません。ただ、英雄管理局が管理する“消去記録”は、そこに集められると聞いたことがあります」
消去記録。
その言葉に、エリシアの顔がこわばった。
兄は戦死者ではなかった。
消去された記録だった。
「出ましょう」
ノアは言った。
「これ以上ここにいると危険です」
エリシアはルシアンの記録を写し取る。震える手で、それでも一字も落とさないように。
記録室を出る時、彼女はもう一度だけ棚を振り返った。
「兄は、ここにもいないのですね」
ノアは答えられなかった。
ルシアンの名はあった。
だが、本当の死は、別の場所に移されていた。
鐘楼地下納骨堂。
そこに、また一つ棺が待っている。




