第26話 善悪の棺
明朝、王国軍が遺体を取りに来た時、鉄の棺は空だった。
隊長は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「どういうことだ!」
作業室の中央には、鉄の棺だけが置かれている。鎖は外され、蓋は開いていた。中には白い布が一枚。ガルディア・ノクスの遺体はない。
ノアは静かに答えた。
「ご遺体は、葬儀を終えました」
「誰が許可した!」
「死者の名を知る者たちです」
「ふざけるな!」
隊長はノアの胸ぐらを掴んだ。
グリムが動こうとしたが、ノアは目で制した。
「魔王の遺体は王国軍の所有物だ!」
「死者は、所有物ではありません」
「貴様……!」
剣が抜かれかけた時、またしてもオルガンが現れた。
まるで、こうなることを知っていたかのように。
「やめなさい」
隊長は叫ぶ。
「局長! この葬儀師が魔王の遺体を隠しました!」
オルガンはノアを見た。
「隠したのか」
「葬りました」
「どこに」
「答えられません」
「王国への反逆に近い」
「死者を見世物にする命令には従えません」
作業室の空気が張り詰める。
ノアは昨夜のことを思い出していた。
深夜、ノアたちはガルディアの遺体を鉄の棺から出し、グリムが用意した木の棺へ移した。棺の内側にはノクス領の紋章を彫った。魔王の娘と老女、数人の避難民が密かに立ち会った。
葬儀は、王都外れの廃倉庫の地下で行った。
花はなかった。
聖務庁の鐘も鳴らなかった。
参列者は、逃げてきた魔族たちと、ノア、エリシア、グリム、ミレイだけ。
それでも、そこには確かに弔いがあった。
ノアは弔辞で、彼を魔王と呼ばなかった。
「ガルディア・ノクス様。あなたは、王国の記録では魔王とされました。ですが、ここに集まった者たちは、あなたを領主として、父として、民を守ろうとした人として記憶しています」
娘は声を殺して泣いていた。
「あなたが守ろうとしたものを、王国の記録が消しても、この葬儀に参列した者たちは忘れません」
エリシアは、少女に言われた通り、自分の言葉で祈った。
「この方が、敵という名から解かれ、愛した土地と人々の記憶へ帰れますように」
最後に、娘が父の手に護符を握らせた。
その後、遺体は王都の外へ運ばれた。ノクス領へ帰すことはまだできない。だが、晒されることは避けた。老女たちが知る安全な場所に、一時的に葬られた。
ノアはその場所を言わない。
言えば、また掘り返されるからだ。
オルガンは、長い沈黙のあと言った。
「君は、死者を守ったつもりだろう」
「はい」
「その結果、生者が危険にさらされるとは考えなかったか」
ノアは黙る。
「魔王の遺体が消えたと知れば、王国軍はノクス領の残党を疑う。避難民を探す。匿った者も処罰対象になる」
ノアの胸が冷えた。
それは考えた。
考えたうえで、それでも晒せなかった。
「なら、あなたは遺体を晒すべきだったと言うのですか」
「私は、君に選択の重さを問うている」
オルガンの声は静かだった。
「死者に誠実であることは美しい。だが、その誠実さの影で、生者が傷つくこともある」
アルトの手紙が脳裏をよぎる。
真実を暴けば、生きている仲間が危険にさらされる。
死者の名誉と、生者の安全はいつも同じ方向を向かない。
ノアは唇を噛んだ。
「それでも」
声がかすれる。
「死者を恐怖の道具として使うことは、葬儀ではありません」
オルガンはノアを見つめた。
「君はいつか、死者を守るために生者を犠牲にするかもしれない」
「あなたは、生者を守ると言って死者を犠牲にしてきた」
二人の視線がぶつかった。
隊長も兵士たちも、口を挟めなかった。
オルガンはやがて、静かに言った。
「今回の件は、私が処理する」
隊長が驚く。
「局長!」
「魔王の遺体は、防腐処理中に崩壊した。呪詛汚染を防ぐため、葬儀社の判断で焼却。そう記録する」
また記録が書き換えられる。
ノアは眉をひそめた。
「なぜ」
「君が守った死者と、その周囲の生者を守るためだ」
オルガンの言葉は、皮肉にも聞こえたし、本心にも聞こえた。
「記録は嘘になります」
「いつものことだ」
「あなたは、それでいいのですか」
「君も、ユージンの時に嘘を書いた」
ノアは何も言えなかった。
オルガンは踵を返す。
「ノア・レクター。善悪の棺を開ける時は気をつけなさい。中には、君が思うほど単純な死者はいない」
その言葉を残して、彼は王国軍を連れて去った。
作業室には、空の鉄棺だけが残った。
ミレイが小さく息を吐く。
「助かった……のかな」
グリムは首を振る。
「借りを作った」
ノアもそう思った。
オルガンは、ノアを見逃した。
だが、それは味方になったという意味ではない。
彼は、ノアに現実を見せている。
死者を守る選択にも、代償があるのだと。
その日の夕方、エリシアが葬儀社を訪れた。
彼女の顔は疲れていたが、どこか決意があった。
「魔王の娘さんたちは、今夜のうちに別の隠れ家へ移るそうです」
「王国軍が探すかもしれません」
「はい。だから、私も手伝います」
「危険です」
「分かっています」
彼女は静かに言った。
「でも、祈るだけでは足りないと分かりました」
ノアは彼女を見る。
エリシアは作業室の空の鉄棺に目を向けた。
「私は今まで、魔王は悪で、勇者は善だと教えられてきました。でも、カイル様は敵の子どもを守ろうとして死に、ガルディア様は自分の民を守ろうとして魔王にされました」
彼女は胸に手を当てる。
「善悪は、棺に入ると形が変わるのですね」
ノアは頷いた。
「死者は、肩書きから少しだけ自由になります」
「では、生きているうちにも、肩書きから自由になれるのでしょうか」
その問いに、ノアはすぐには答えられなかった。
勇者。
聖女。
魔王。
裏切り者。
候補生。
葬儀師。
誰もが、何かの名に縛られている。
それを解くのは、葬儀だけでよいはずがない。
「いつか、そういう世界にしなければならないのだと思います」
ノアは言った。
エリシアは小さく頷いた。
その夜、ノアはガルディアの葬儀記録を書いた。
ガルディア・ノクス。
王国記録、魔王級災厄。
公式処理、防腐処理中に呪詛汚染のため焼却。
実際、拘束後に処刑された可能性。
胸部槍傷。
生前拘束痕。
守護結界型魔力。
証言、ノクス領避難民。
関連、魔力鉱脈、王国軍侵攻。
最後の一文。
彼は、魔王として死んだのではない。
民を守ろうとした領主として葬られた。
ノアは羽ペンを置いた。
机の上には、いくつもの台帳が重なっている。
勇者。
聖女。
魔法使い。
逃亡勇者。
候補生。
魔王。
王国が語る物語の中では、彼らは役割でしかなかった。
だが、棺を開けると、そこにはいつも人がいた。
怖がった勇者。
疲れ果てた聖女。
嘘を背負った魔法使い。
逃げて生きた青年。
番号を奪われた子ども。
民を守った魔王。
ノアは台帳を閉じた。
これで、王国の善悪はさらに揺らいだ。
次に開く棺は、誰のものだろう。
その答えは、まだ分からない。
ただ、エリシアの兄ルシアンの名が、近づいている気がした。
そして、父が残した鍵。
鐘楼地下納骨堂。
すべての棺は、そこへ向かっている。




