第25話 敵にも祈りは必要か
エリシアは、作業室の前で立ち止まっていた。
中には、ガルディア・ノクスの遺体が安置されている。
鉄の棺から出され、今は白布の上に横たえられていた。縛られていた手はほどかれ、胸の槍傷には清潔な布が当てられている。
角の折れた魔王。
王国が恐怖の象徴として晒そうとしていた死者。
エリシアは扉の前で、祈りの杖を握りしめていた。
「入らないのですか」
ノアが尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「分からないのです」
「何が」
「祈っていいのかどうか」
彼女の声は、リナの葬儀の時とは違う震え方をしていた。
「聖務庁では、魔王は神の光に背いた存在だと教えられます。魔王に祈ることは、死者を送ることではなく、災厄を招くことだと」
「あなた自身は、どう思いますか」
エリシアは答えられなかった。
「倉庫で、あの子に言われました。人間の祈りなんかいらない、と」
「はい」
「私も、そうだと思いました。私たちが祈ったところで、王国がしたことは消えません。祈りは、加害者の側が自分を許すための道具にもなってしまう」
ノアは静かに聞いていた。
エリシアは続ける。
「でも、何も祈らないのも違う気がします。ガルディア様が、ただ魔王として晒されることを止めたい。でも、私が祈ることで、また人間側の都合のいい弔いにしてしまうのではないかと」
それは、深い迷いだった。
祈りは善意だけでは届かない。
時に、相手の痛みを覆う白布にもなる。
ノアは言った。
「祈りを捧げる前に、謝る必要があるのかもしれません」
エリシアは顔を上げる。
「謝る」
「はい。許されるためではなく、自分がどちら側に立っているのかを忘れないために」
エリシアは作業室の扉を見つめた。
「私は、王国側の人間です」
「はい」
「聖務庁で祈りを学び、魔王は災厄だと教えられ、何も疑わずにきました」
「はい」
「それでも、祈ってよいのでしょうか」
ノアは少し考えてから言った。
「祈ってよいかどうかは、僕には決められません。ガルディア様の遺族でも、民でもありませんから」
「では」
「ただ、弔いは、正しい人だけに許されるものではないと思います。間違えた者が、その間違いを見つめるために祈ることもあるのではないでしょうか」
エリシアは長い間、黙っていた。
やがて、扉を開けた。
作業室の中は静かだった。
ガルディアの遺体は、魔王という言葉から想像するよりずっと人間に近く見えた。閉じられた瞼。疲れた頬。手首に残る縄の跡。
エリシアは棺のそばに立った。
祈りの杖を胸に抱く。
だが、すぐに祈りの言葉は出なかった。
彼女はまず、深く頭を下げた。
「ガルディア・ノクス様」
声は小さかった。
「私は、王国聖務庁の者です。あなたを魔王と呼び、災厄と教えてきた側の人間です」
ノアは少し離れて見守っていた。
「あなたの民が傷ついたことを、私は知りませんでした。あなたが結界で子どもたちを守っていたことも、王国軍に捕らえられたことも、何も知りませんでした」
エリシアの指が震える。
「知らなかったことを、言い訳にはしません」
その言葉に、ノアは息を止めた。
エリシアはゆっくり続ける。
「あなたの娘さんは、人間の祈りなどいらないと言いました。きっと、その通りです。私の祈りは、あなたの民の悲しみを癒やせません。王国の罪を消すこともできません」
彼女は杖を胸に強く抱いた。
「それでも、あなたが見世物として晒されるのではなく、名を持つ死者として眠れるように、祈らせてください」
エリシアは聖務庁の正式な祈祷文を唱えなかった。
神の光も、王国の平和も、魔王の滅びも口にしなかった。
ただ、短く言った。
「あなたが守ろうとした人々の記憶の中で、魔王ではなく、ガルディア様として帰れますように」
祈りが終わる。
作業室には、静かな空気が残った。
ノアは、祈りが届いたかどうかは分からなかった。
だが、少なくともそれは、王国のための祈りではなかった。
その時、裏口が小さく叩かれた。
グリムが扉を開ける。
そこに立っていたのは、廃倉庫で見た角の欠けた少女だった。薄い外套を着て、顔を隠している。老女も一緒だった。
「娘君だ」
老女が小さく言った。
「父親に、会いたいと」
ノアはすぐに場所を空けた。
少女は作業室へ入ると、ガルディアの遺体の前で立ち止まった。
彼女はしばらく、何も言わなかった。
ただ、父の顔を見ていた。
そして突然、駆け寄った。
「お父様」
声が崩れた。
少女はガルディアの冷たい手を握った。
縛られた跡の残る手を、両手で包む。
「お父様……」
泣き声は小さかった。
けれど、胸を裂くようだった。
エリシアは一歩下がった。自分がここにいてよいのか分からないという顔をしていた。
少女は涙を拭い、エリシアを見た。
「あなた、祈ったの」
エリシアは頷いた。
「はい」
「王国の祈り?」
「いいえ。私の、謝罪に近い祈りです」
少女はしばらく彼女を睨んだ。
そして、小さく言った。
「お父様は、人間の祈りを嫌いじゃなかった」
エリシアが目を見開く。
「昔、境界の村のお祭りに行って、人間の歌を聞くのが好きだった。だから……祈るなら、王国の言葉じゃなくて、あなたの言葉で祈って」
エリシアの目に涙が浮かんだ。
「はい」
少女はガルディアの胸に、小さな木片を置いた。
それは、ノクス領の紋章を彫った護符だった。
「本当は、お母様の隣に帰してあげたかった」
その声に、ノアの胸が痛んだ。
「今すぐには難しいかもしれません」
「分かってる」
少女は顔を上げた。
「でも、晒さないで」
「はい」
ノアは深く頭を下げた。
「必ず、見世物にはしません」
その約束がどれほど危険か、分かっていた。
王国軍は明朝、遺体を取りに来る。
民衆の前に晒すために。
約束を守るには、王国の命令に背く必要がある。
オルガンは言った。
敵を弔えば、味方から疑われる。
それでも、ノアはもう決めていた。
この棺は、晒すためにあるのではない。
帰すためにある。




