第23話 敵の棺
その棺には、名前がなかった。
勇者の棺には名が刻まれていた。
聖女候補の棺には祈りの布がかけられていた。
裏切り者の棺にさえ、処分記録には名前があった。
だが、その日レクター葬儀社へ運ばれてきた棺には、名札も、紋章も、祈りもなかった。
ただ、黒い鉄の箱だった。
木ではない。
鉄だ。
棺というより、檻に近かった。
王都の午後は重く曇っていた。通りを行く人々は、葬儀社の前に停まった軍用馬車を遠巻きに見ている。馬車の側面には英雄管理局ではなく、王国軍の紋章があった。
運んできた兵士たちは、棺に触れることさえ嫌がっているようだった。
「魔王の遺体だ」
隊長らしき男が、吐き捨てるように言った。
ノアは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「魔王、ですか」
「ああ。北東辺境の小領主を名乗っていた魔族の王だ。討伐済み。王都で見世物にする予定だったが、腐敗が進む前に最低限の防腐処理をしろと命じられた」
「葬儀ではなく?」
隊長は鼻で笑った。
「葬儀? 魔王に?」
周囲の兵士たちも笑った。
それは楽しげな笑いではない。蔑みと恐怖が混ざった、硬い笑いだった。
「勘違いするな。弔うんじゃない。広場で晒すために形を保てと言っている」
ノアは鉄の棺を見た。
黒い蓋には、何本もの封印鎖が巻かれている。蓋の隙間からは、魔術で封じた冷気が漏れていた。
死者を閉じ込めるための棺。
死者を迎えるためのものではない。
「遺体を見せてください」
「気をつけろ。死んでいても魔王だ。呪いが残っているかもしれん」
隊長は鍵を外すよう兵に命じた。兵士たちは顔をしかめながら鎖を解く。鉄が擦れる音が作業室に響いた。
蓋が開いた瞬間、冷気と血の匂いが流れ出した。
棺の中には、一人の男が横たわっていた。
肌は人間より少し青白い。額には折れた角が二本。耳は細く尖っている。だが、顔立ちは穏やかで、魔物というより疲れ果てた王のように見えた。
年齢は人間でいえば四十前後だろうか。
黒い髪には銀が混じり、頬には戦傷がある。
胸には、大きな槍傷があった。
そして、両手は後ろで縛られていた。
ノアは眉をひそめた。
「なぜ、死後も拘束を?」
隊長は当然のように答えた。
「魔王だからだ」
「死者です」
「魔王だ」
その二つの言葉は、隊長の中では矛盾しないらしい。
ノアは深く息を吸い、棺に向かって一礼した。
「お帰りなさいませ」
作業室の空気が凍った。
兵士の一人が顔を上げる。
「おい。今、何と言った」
「死者を迎える時の挨拶です」
「そいつは人間じゃない」
「死者です」
ノアの声は静かだった。
隊長の顔が赤くなる。
「魔王だぞ。多くの人間を殺した敵だ。貴様、正気か」
その時、裏口からグリムが入ってきた。隊長の怒声を聞いて、すぐに状況を察したのだろう。彼は黙ってノアの後ろに立った。
それだけで、兵士たちの勢いが少し弱まる。
ノアは続けた。
「防腐処理を行うには、拘束を外す必要があります」
「外すな。命令だ」
「では、処理は不完全になります」
「構わん。形だけ保てばいい」
「死者を晒すためにですか」
隊長はノアを睨んだ。
「王国軍への侮辱だな」
「いいえ。葬儀師としての確認です」
「葬儀師は黙って命令を聞け」
ノアは鉄の棺の中の魔王を見た。
折れた角。
縛られた手。
胸の槍傷。
閉じられた瞼。
この男は、生前何をしたのか。
本当に人間の村を襲ったのか。
王国が語る通りの怪物だったのか。
まだ何も分からない。
だが、死んだ後まで檻のような棺に入れられ、見世物にされることだけは、葬儀ではなかった。
「私は、死者を見世物にするための処理はできません」
ノアが言うと、隊長が剣の柄に手をかけた。
「命令違反だぞ」
作業室に緊張が走る。
グリムが一歩前に出る。
その時、入り口から別の声がした。
「そこまでにしなさい」
灰色の外套をまとった男。
オルガン・レイスだった。
隊長はすぐに姿勢を正す。
「局長」
「彼は葬儀師だ。死者を物として扱う命令には反発する。そういう職種だ」
まるでノアを庇うような言い方だった。
だが、ノアには分かっていた。
オルガンは優しさで来たのではない。
彼はいつも、棺の近くに現れる。
「ノア・レクター」
オルガンは鉄の棺を見た。
「この遺体は、王国にとって重要な証拠だ。民衆に、魔王が倒されたことを示す必要がある」
「だから晒すのですか」
「恐怖を終わらせるには、恐怖の死を見せる必要がある」
「死者にも尊厳があります」
「敵にも?」
「はい」
オルガンは、ほんのわずかに目を細めた。
「君はまた、難しい棺を選ぶ」
「選んでいません。運ばれてきました」
「棺は、必要な者の前に届くものだ」
それは、父が言いそうな言葉でもあった。
ノアは表情を変えなかった。
「この方の名前は」
隊長が吐き捨てるように答えた。
「魔王ガルディア」
「正式な名ですか」
「魔王に正式も何もあるか」
オルガンが静かに言った。
「ガルディア・ノクス。北東辺境ノクス領の領主。王国記録上は、魔王級災厄指定」
ノアはその名を胸に刻んだ。
ガルディア・ノクス。
名前がある。
ならば、名で迎えるべきだった。
ノアは改めて棺の前に立ち、一礼した。
「お帰りなさいませ、ガルディア様」
兵士たちが息を呑む。
オルガンは何も言わなかった。
その沈黙は、許可ではない。
ただ、ノアを試している沈黙だった。
「処理は行います。ただし、拘束を外し、死者として扱います」
隊長が抗議しようとしたが、オルガンが手を上げて制した。
「任せよう」
「局長!」
「ただし、遺体は明朝までに王国軍へ返すこと。余計な調査はしないこと」
余計な調査。
また、その言葉だった。
ノアは棺の中のガルディアを見た。
王国が調べられたくない死者。
ならば、この棺にも何かがある。
オルガンは去り際に、ノアへ小さく言った。
「敵を弔えば、味方から疑われる。覚悟しておきなさい」
「死者を弔うのに、敵味方はありません」
「それが通じる世界なら、勇者など必要なかった」
オルガンは去った。
王国軍の兵士たちも、不満げに鉄の棺を置いていった。
作業室に残ったのは、ノア、グリム、そして魔王ガルディアの遺体だけだった。
ノアは鎖を外し、後ろで縛られた手をほどいた。
手首には、深い縄の跡があった。
生前につけられたものだった。
「捕虜だったのか」
グリムが低く呟いた。
ノアはガルディアの胸の槍傷を見た。
深い。
だが、戦場で正面から受けた傷にしては角度が低い。倒れた後、上から突かれたようにも見える。
「ミレイを呼びます」
「呼ぶと思った」
グリムはそう言って裏口へ向かった。
ノアは魔王の遺体に白布をかけた。
敵として晒されるはずだった死者。
魔王として恐れられた男。
王国が名前を呼ぼうとしなかった者。
その棺は、勇者の棺と同じ匂いがした。
隠された死因の匂いが。




