第22話 消えた兄の名前
セオの葬儀は、レクター葬儀社で行うことにした。
王都警備隊は「身元不明者」として裏墓地へ送る予定だった。王立養護院は「当院の児童ではない」と主張した。英雄管理局は、なぜかまだ動かなかった。
だからこそ、急ぐ必要があった。
名前が分かった死者は、もう身元不明者ではない。
たとえ王国が認めなくても。
ノアは台帳の空欄に、少年の名を書いた。
セオ。
姓、不明。
年齢、推定十二歳。
元王立養護院、勇者候補。
袖番号七三。
書きながら、胸が痛んだ。
姓がない。
家族の名もない。
生年月日も分からない。
好きな食べ物も、夢も、初めて木剣を握らされた日のことも、何も分からない。
分かったのは、名前と番号。
パンを半分くれたこと。
足が速かったこと。
熱があっても試験に出されたこと。
それだけだ。
だが、それだけでも何もないよりはいい。
葬儀の準備をしていると、エリシアが手伝いに来た。
彼女はいつもより口数が少なかった。
「兄のことを、ずっと魔王に殺されたのだと思っていました」
花を整えながら、彼女は言った。
「そう信じれば、悲しむ理由が分かりやすかったからです。魔王を憎めばよかった。戦争を憎めばよかった。王国は兄を称えてくれたと、思い込めた」
ノアは静かに聞いていた。
「でも、本当は……兄も、記録から消されたのかもしれない」
「まだ確定ではありません」
「はい。でも、もう分かっています」
エリシアは白い小花を棺のそばに置いた。
「兄は、誰かを見捨てられる人ではありませんでした。選定院で下の子の手当てばかりしていたと聞いて、兄らしいと思ってしまいました」
声が震える。
「兄らしいと思った瞬間、魔王に殺されたという話の方が嘘だったのだと、分かってしまいました」
ノアは言葉を探した。
だが、何を言っても軽くなる気がした。
代わりに、セオの棺へ目を向ける。
「今日の葬儀で、セオさんの名前を呼びます」
「はい」
「それは、ルシアン様の名前を探すことにもつながります」
エリシアは頷いた。
「だから私も、祈ります」
葬儀には、予想外の参列者がいた。
トマと、六八番の少女。
そして老清掃夫。
三人は裏口から入ってきた。誰にも見つからないよう、粗末な外套を羽織っている。
ノアは驚いたが、すぐに迎え入れた。
「危険です」
トマは首を振った。
「セオに、名前でさよなら言いたい」
六八番の少女も頷く。
「私、ミナっていうの」
ノアは一瞬、言葉に詰まった。
「ミナさん」
少女はその名を呼ばれた瞬間、泣きそうな顔になった。
「久しぶりに呼ばれた」
その一言だけで、ノアはこの施設がどれほど子どもたちから自分自身を奪っていたかを知った。
老清掃夫は帽子を脱いだ。
「セオ坊は、よく箒を貸してくれと言いました。訓練をさぼるためかと思ったら、部屋の隅にいる小さな子のために、こぼした粥を片づけていた」
「優しい子だったのですね」
「はい。勇者には向いていない、と教官は言っていました」
老清掃夫は棺を見た。
「でも、人としては、あの子の方がずっとまっとうでした」
ノアは弔辞の紙を手にした。
小さな作業室。
粗末な棺。
白い小花。
参列者はわずか。
だが、これは裏墓地へ流されるはずだった身元不明者の処理ではない。
セオという少年の葬儀だった。
ノアは棺の前に立つ。
「セオさん」
その名を呼んだ瞬間、トマが泣き出した。
ミナも唇を噛んでいる。
エリシアは祈りの杖を胸に抱いた。
「あなたは、番号七三ではありません。記録から消された身元不明者でもありません」
ノアの声は静かに作業室へ響く。
「あなたの名は、セオ。足が速く、パンを半分分ける優しい子だったと聞きました」
トマが袖で涙を拭う。
「あなたは勇者候補として訓練されました。けれど、勇者になれなかったことは、あなたの価値を失わせるものではありません」
ノアは、棺の中の小さな手を思い出した。
剣だこだらけの手。
本当なら、木登りをしたり、友達と遊んだり、パンを掴んだりするための手。
「あなたが剣を握らされたこと。倒れても立てと言われたこと。熱があっても試験に出されたこと。それらを、私は忘れません」
忘れません。
その言葉は、葬儀師にとって誓いだった。
「あなたは英雄になれなかったのではありません。英雄になる前に、子どもであることを奪われました」
エリシアの涙が落ちた。
「どうか、もう立たなくていい場所へ帰れますように。番号ではなく、名前で呼ばれる場所へ」
ノアは一礼した。
「お帰りなさいませ、セオさん」
エリシアが祈りを捧げた。
「この子が、もう選ばれなくてすみますように。強さを測られず、役に立つかどうかで見られず、ただ一人の子どもとして安らげますように」
祈りが終わると、トマが棺に近づいた。
手には、小さなパンの欠片があった。
「前に、もらったから」
彼はそれを棺のそばに置いた。
「返す」
ミナは、自分の袖口から番号札を外そうとした。だが、縫い付けが固く、なかなか取れない。グリムが黙って小刀を渡した。
ミナは番号六八を切り取り、棺のそばに置いた。
「私、番号じゃないから」
その声は震えていたが、確かだった。
老清掃夫は深く頭を下げた。
「ルシアン様も、こうして送って差し上げたかった」
エリシアが顔を上げる。
「兄のことを、もう少し教えてください」
老清掃夫は頷いた。
「ルシアン様は、最後の夜、子どもたちを逃がそうとしていました」
エリシアの呼吸が止まる。
「逃がす?」
「選定試験で落ちた子どもが、どこへ連れていかれるのか気づいたのです。ルシアン様は、下の子たちを逃がそうとした。ですが、英雄管理局の馬車が来て……」
「その後は」
老清掃夫は首を振った。
「分かりません。ただ、その翌朝、ルシアン様の名前は記録から消されていました」
エリシアは震える手で祈りの杖を握った。
ノアは父の手紙を思い出す。
名前を奪われた英雄。
初代勇者団最後の生存者。
記録から消される者たち。
王国は、都合の悪い者から名前を奪う。
勇者でも、聖女でも、魔法使いでも、子どもでも。
葬儀の後、トマとミナは養護院へ戻ると言った。
「危険です。戻らない方が」
ノアが言うと、トマは首を振った。
「まだ中に、みんながいる。俺たちだけ逃げられない」
それは、子どもが背負うには重すぎる言葉だった。
ミナはノアを見上げる。
「葬儀師さん。セオの名前、ちゃんと書いてくれる?」
「はい」
「私の名前も、覚えてくれる?」
ノアは膝をつき、彼女と目線を合わせた。
「ミナさん。覚えます」
「トマも」
「トマさんも」
トマは照れたように目を逸らした。
二人は老清掃夫に連れられ、裏口から出ていった。
その背中を見送りながら、エリシアが言った。
「兄は、あの子たちのような子を逃がそうとしたのですね」
「おそらく」
「なら、私は兄の続きをしなければなりません」
ノアは彼女を見る。
「危険です」
「分かっています」
「聖務庁も、英雄管理局も、黙っていない」
「それでも」
エリシアの目には、もう迷いだけではない光があった。
「リナを失い、セオを見て、兄の名前まで消されていたと知って……それでも祈るだけなら、私は何のために聖女見習いでいるのか分かりません」
ノアは頷いた。
「では、まず記録を集めましょう」
「記録?」
「子どもたちの名前。番号。消された者。移送された者。選定試験。ルシアン様の行方」
ノアは台帳を開いた。
「葬儀師は、死者の記録を残します。でも、まだ死んでいない子どもたちの記録も、必要です」
エリシアは静かに頷いた。
その夜、ノアはセオの葬儀記録を書いた。
セオ。
姓、不明。
袖番号七三。
王立養護院、勇者候補。
公式扱い、身元不明の孤児。
実際、選定試験後に死亡。
訓練痕、衰弱、内臓損傷。
証言、トマ、ミナ、老清掃夫。
関連、ルシアン・ヴェイン失踪。
最後の一文。
彼は、英雄になれなかったのではない。
子どもであることを奪われた。
ノアは羽ペンを置いた。
作業室には、まだ小さなパンの欠片が置かれている。
トマが棺に入れたものと同じ形の、もう一つの欠片だった。帰り際、彼がノアに渡した。
「セオが、いつも半分くれたから」
その言葉が耳に残っている。
ノアはパンの欠片を見つめた。
勇者制度は、華やかな英雄譚ではなかった。
その根元には、番号で呼ばれ、強さを測られ、選ばれなければ消される子どもたちがいた。
勇者の棺を開けるたび、王国の深い場所が見えてくる。
そしてその底には、まだ名を呼ばれていない死者がいる。
エリシアの兄ルシアン。
ノアの父が葬った初代勇者団最後の生存者。
王国が消してきた、数えきれない名前。
ノアは台帳を閉じる前に、もう一行だけ書き足した。
次に探すべき名。
ルシアン・ヴェイン。
外では、鐘楼の鐘が夜を告げていた。
その音は、今夜もどこか棺の中から響くようだった。




