第21話 選ばれなかった者の末路
訓練室の空気は、血と汗と消毒薬の匂いがした。
子どもたちは、ノアたちを見ていないふりをしていた。
見れば、何かを期待してしまう。
期待して裏切られるのが怖いのだろう。
教官が木剣を下ろし、ベルタ院長に近づいた。
「院長。部外者を訓練室へ入れる許可は」
「事故です」
ベルタの声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
「すぐに出ていただきます」
ノアは倒れた少年の方へ歩いた。
「手当てを」
教官が前に出る。
「必要ありません。候補生は自力で立つ訓練中です」
「怪我をしています」
「勇者になれば、怪我をしても立たなければならない」
その言葉を聞いた瞬間、グリムが教官の木剣を掴んだ。
木が軋む。
「子どもだ」
グリムの声は低かった。
「勇者じゃない」
教官の顔が強張る。
ノアはその隙に倒れた少年のそばへ膝をついた。
「大丈夫ですか」
少年は答えなかった。歯を食いしばり、立とうとしている。泣きそうなのに、泣くことを許されていない顔だった。
エリシアが駆け寄り、簡単な治癒の祈りをかける。
「無理に立たなくていいです」
その言葉に、少年の目が揺れた。
立たなくていい。
この施設で、そんな言葉をかけられたことがなかったのかもしれない。
ベルタが厳しい声を出す。
「エリシア様。許可なく候補生に治癒を施さないでください」
「怪我人を放置する許可など、私には必要ありません」
エリシアの声は震えていた。
だが、引かなかった。
ノアは少年の袖口を見た。
六九。
「あなたの名前は?」
少年は目を伏せる。
「……六九」
「番号ではなく、名前です」
少年は戸惑った。
まるで、名前というものが遠い昔の言葉のように。
「トマ」
小さな声。
「トマです」
ノアは頷いた。
「トマさん。少しだけ聞かせてください。七三番の子を知っていますか」
その瞬間、訓練室の空気が変わった。
子どもたちの視線が、一瞬だけ集まる。
ベルタが鋭く言う。
「その質問には答えなくていい」
トマの体が震えた。
ノアは穏やかに言った。
「無理に答えなくて構いません。ですが、私たちはその子を葬るために名前を探しています」
「……死んだの?」
トマが呟いた。
ベルタが一歩踏み出す。
「トマ」
グリムがその前に立った。
「黙っていろ」
ベルタは顔をこわばらせたが、グリムの体格と目つきに押されて動けなかった。
トマは唇を噛んだ。
「七三は、セオ」
ノアは息を呑んだ。
名前。
ようやく、棺の少年に名前が戻った。
「セオさん」
「一緒の部屋だった。剣は下手だったけど、足が速くて、いつもパンを半分くれた」
トマの声は震えている。
「試験で倒れた。立てって言われて、でも立てなくて。夜に先生たちが連れていった。翌朝、ベッドが空になってた」
「試験とは?」
エリシアが尋ねる。
トマは答えようとして、教官を見た。
恐怖が勝ちそうになる。
その時、訓練室の隅から別の少女が声を上げた。
「選定試験」
袖口に六八とある、さっき扉から覗いていた少女だった。
「月に一度ある。強い子は上のクラスへ行ける。弱い子は、地方施設に移されたことになる」
「地方施設?」
少女は首を振った。
「戻ってきた子はいない」
ノアは拳を握った。
ベルタが冷たく言った。
「子どもの妄想です。選定試験は能力を測るためのもの。移送された子どもたちは、それぞれ適切な施設へ」
「では、移送記録を見せてください」
ノアが言うと、ベルタは黙った。
見せられないのだ。
記録がないから。
あるいは、見せれば死者の名が並んでいるから。
エリシアは訓練室を見渡した。
子どもたちの袖番号。木剣。治療台。壁に貼られた成績表。
そこには、名前ではなく番号が並んでいる。
六八。
六九。
七一。
七二。
七三。
七三の欄には、赤い線が引かれていた。
「セオは、消されたのですね」
エリシアの声は低かった。
ベルタは答えない。
ノアは成績表に近づいた。七三番の欄には、魔力、剣術、耐久、従順性という項目がある。
従順性。
子どもに向ける評価ではない。
「セオさんは、なぜ試験で倒れたのですか」
少女六八が答えた。
「前の日から熱があった。でも、休むと評価が下がるから。セオは、選ばれたかったんじゃない。落ちると、どこかへ連れていかれるから」
選ばれるためではない。
消されないために戦っていた。
ノアは胸が締めつけられた。
勇者になりたかったのではなく、生き残りたかった。
それなのに、最後は番号だけ残され、身元不明として運ばれてきた。
「ルシアン・ヴェイン」
エリシアが突然言った。
「その名前を知っている人はいますか」
子どもたちは顔を見合わせた。
誰も答えない。
古い名だ。今の子どもたちが知るはずがない。
だが、訓練室の隅にいた老清掃夫が、動きを止めた。
白髪の男だった。床の血を拭くための布を持っている。ノアはそれまで、彼が職員だと思っていなかった。存在を消すように静かに立っていたからだ。
エリシアが気づき、近づく。
「あなたは、兄を知っていますか」
老清掃夫はベルタを見た。
ベルタの顔が険しくなる。
「余計なことは言わないように」
老清掃夫は、しばらく沈黙した。
そして、小さく言った。
「ルシアン様は、優しい子でした」
エリシアの顔が崩れた。
「兄を……知っているのですね」
「はい。十年ほど前、ここにおられました。剣よりも、下の子の手当てばかりしていた。よく叱られていました」
エリシアは両手を握りしめる。
「兄は、魔王に殺されたと聞きました」
老清掃夫は首を振った。
「私は、そうは聞いておりません」
ベルタが声を荒げた。
「黙りなさい!」
グリムが一歩踏み出す。
訓練室の空気が張り詰めた。
老清掃夫は震えながらも、言葉を続けた。
「ルシアン様は、命令に背いたと聞きました。上の方々に連れていかれ、それきり……記録から名前が消されました」
エリシアの瞳が揺れる。
「連れていかれた先は」
「英雄管理局の馬車でした」
ノアの中で、また線がつながる。
英雄管理局。
選定院。
消された子ども。
エリシアの兄。
ベルタは、ついに冷静さを失った。
「全員、部屋へ戻りなさい! この件は正式に抗議します。あなた方は当院の運営を妨害した」
「運営?」
ノアは少年セオの名前を胸に刻みながら言った。
「子どもを番号で呼び、死んだら記録から消すことを、運営と呼ぶのですか」
ベルタの目が細くなる。
「あなたは何も分かっていない」
「分かっていないのは、子どもたちの名前を忘れた人たちです」
ノアはトマと少女六八を見る。
「私たちは、セオさんを名前で葬ります」
子どもたちの間に、わずかなざわめきが起きた。
名前で葬る。
それだけの言葉が、ここでは希望のように響いた。
ベルタは冷たく言った。
「そのような児童は、当院には存在しません」
ノアは答えた。
「では、なおさら私が記録します」
その言葉に、老清掃夫が目を伏せた。
まるで、長い間待っていた言葉を聞いたように。




