第20話 勇者候補の孤児院
王立養護院は、王都北区の丘の上にあった。
高い塀に囲まれた大きな建物だった。表門には蔦が絡み、壁は白く塗られている。外から見れば、身寄りのない子どもたちを保護する慈善施設に見えた。
門の上には、王国の紋章。
その下に、優しい文字でこう刻まれている。
すべての子に、光ある未来を。
ノアはその言葉を見上げた。
光ある未来。
棺の中の少年の手を思い出す。剣だこだらけで、細く、栄養の足りない手。あの手が掴んだ未来は、裏墓地行きの木箱だった。
エリシアは門の前で立ち止まっていた。
「ここです」
「来たことが?」
「兄が送られる時、一度だけ。私はまだ幼くて、中には入れませんでした。兄は門の向こうで、振り返って手を振って……それきりです」
その声は淡々としていた。
淡々としているほど、傷が深いのだとノアには分かった。
グリムは少し離れた場所で周囲を見ている。ミレイは今回は同行していない。少年の死因記録を整理し、証拠を保管している。
ノアは門番に葬儀社の名を告げた。
「王都警備隊から運ばれた身元不明少年について、確認したいことがあります。こちらの施設に関係する可能性があります」
門番は表情を変えなかった。
「当院の児童に死亡者は出ておりません」
「まだ名前も確認していません」
「当院の児童に死亡者は出ておりません」
同じ言葉。
あらかじめ用意された返答だった。
エリシアが一歩前へ出る。
「聖務庁のエリシア・ヴェインです。院長に取り次いでください」
門番は彼女の徽章を確認し、渋々中へ通した。
院内は静かだった。
静かすぎるほどだった。
子どもたちの笑い声はない。走る足音もない。広い廊下には、磨かれた床と白い壁、規則正しく並んだ扉。まるで病院か兵舎のようだった。
奥の部屋で待っていた院長は、痩せた中年の女性だった。
名を、ベルタ・グレン。
きちんと結い上げた髪、整えられた襟元、温かさを装った笑み。だが、その目は笑っていない。
「レクター葬儀社の方が、当院に何のご用でしょう」
ノアは少年の特徴を伝えた。
年齢。
剣だこ。
訓練痕。
襟元の徽章を消した跡。
靴の中の番号、七三。
ベルタ院長は、最後まで表情を崩さなかった。
「当院では、児童を番号で管理しておりません」
「では、七三という数字に心当たりはありませんか」
「ありません」
「死亡した少年にも?」
「当院の児童に死亡者は出ておりません」
また同じ言葉。
ノアは静かに見つめ返した。
「では、行方不明者は?」
ベルタの指がわずかに動いた。
「児童の移動はあります。地方の養護施設へ送ることも、職業訓練先へ出すことも」
「その記録を見せていただけますか」
「部外者にはお見せできません」
エリシアが口を開いた。
「ルシアン・ヴェインの記録はありますか」
ベルタの目が、初めて明確に揺れた。
「……古い名前ですね」
「兄です。かつてここに送られました」
「記録は残っていないと思います」
「なぜですか」
「古いものですので」
「兄は、魔王討伐任務中に死亡したと聞いています。ですが、遺体も葬儀記録もありません」
ベルタは沈黙した。
その沈黙は、知らない者の沈黙ではなかった。
「エリシア様」
院長の声が低くなる。
「過去を調べることは、あなたのためになりません」
エリシアの顔が強張る。
ノアは、その言葉に既視感を覚えた。
オルガンも同じようなことを言った。
知らない方がいい。
調べない方が幸せだ。
そう言う者ほど、何かを隠している。
「院長」
ノアは静かに言った。
「私たちは、少年の名前を探しています」
「警備隊からの身元不明者でしょう。当院には関係ありません」
「死者に名がないままでは、葬儀ができません」
「身元不明者として葬ればよいでしょう」
「よくありません」
ノアの声が少し強くなった。
「名前を知る者がいるなら、その名で送るべきです」
ベルタはノアを見た。
「葬儀師は、随分と面倒な仕事をするのですね」
「死者にとっては、一度きりですから」
その時、廊下の向こうから小さな物音がした。
ノアが振り返ると、扉の隙間から子どもの顔が覗いていた。十歳くらいの少女。短く切られた髪。大きな目。
ベルタが鋭く言った。
「部屋に戻りなさい」
少女はびくりと肩を震わせ、扉の奥へ消えた。
だが、その一瞬、ノアは見た。
少女の袖口に縫いつけられた布片。
番号。
六八。
ノアは息を潜めた。
当院では、児童を番号で管理しておりません。
ベルタの言葉は嘘だった。
「院長」
グリムが低く言った。
「子どもたちを見せてもらおう」
「あなたは?」
「棺桶職人だ」
ベルタは露骨に不快そうな顔をした。
「ここは葬儀社ではありません。養護院です。お帰りください」
その時、また廊下の向こうで音がした。
今度は、何かが倒れる音。続いて、子どもの小さな悲鳴。
ベルタの顔色が変わる。
「失礼」
彼女が席を立つより早く、ノアたちは廊下へ出た。
広い訓練室があった。
窓は高く、床には木剣が並んでいる。壁には的。隅には治療用の簡易台。
そこに、十数人の子どもがいた。
年齢は八歳から十五歳ほど。皆、同じ灰色の訓練服を着ている。袖口には番号が縫い付けられていた。
一人の少年が床に倒れている。教官らしき男が、木剣を手に立っていた。
「立て」
教官は言った。
「勇者候補が、その程度で倒れるな」
倒れた少年の袖口には、六九とある。
ノアは無意識に足を踏み出した。
だが、グリムが腕で制した。
「今は見る」
「でも」
「助けるなら、全部を見る必要がある」
ノアは唇を噛んだ。
教官は少年を無理やり立たせる。少年の足は震えていた。周囲の子どもたちは、誰も声を出さない。助けようともしない。助ければ、自分も罰を受けると知っているのだ。
エリシアは顔を青ざめさせていた。
「これが、養護院……」
ベルタが追いついてきた。
「訓練の一環です。子どもたちの未来のために」
「未来?」
ノアは振り返った。
「この子たちは、勇者候補なのですか」
ベルタは口を閉ざした。
答えなくても、訓練室が答えていた。
木剣。番号。治療台。倒れた少年。恐怖で黙る子どもたち。
英雄は、ここで作られている。
そして、作られ損なった子どもは、記録から消される。
ノアは倒れた少年を見た。
棺の中の少年と同じ手をしていた。
剣だこだらけの、小さな手。




