第19話 記録にない少年
その少年には、名前がなかった。
少なくとも、王国の書類上では。
レクター葬儀社に運ばれてきた棺は、勇者のものでも聖女のものでもなかった。英雄管理局の馬車ではなく、王都警備隊の荷馬車だった。棺というより、簡素な木箱に近い。
運んできた警備隊員は、面倒そうに書類を差し出した。
「身元不明の少年だ。年は十二、三。王都北区の裏路地で倒れていた。引き取り手なし。裏墓地送りで頼む」
ノアは書類を受け取った。
「死因は」
「衰弱死。たぶんな」
「たぶん?」
警備隊員は肩をすくめた。
「医師がそう書いた。孤児なんて、だいたいそんなもんだろう」
その言い方に、ノアは眉を動かした。
だが、警備隊員は気にした様子もなく続ける。
「最近、裏路地に子どもが多くてな。いちいち身元なんて調べてられない。葬ってやるだけ親切だ」
葬ってやる。
その言葉は、死者を送る言葉ではなかった。
片づける側の言葉だった。
ノアは書類を閉じ、棺に向かって一礼した。
「お預かりします」
警備隊員が去ると、作業室には小さな棺だけが残った。
グリムが棺を見下ろす。
「子どもの棺は、嫌いだ」
低い声だった。
ノアは頷いた。
「はい」
死者に年齢の差はない。
そう思いたい。
だが、子どもの棺には、どうしても別の重さがある。これから使うはずだった時間、伸びるはずだった背丈、呼ばれるはずだった名前。すべてが小さな箱の中で途切れている。
ノアは白手袋をはめ、蓋を開けた。
中に眠っていたのは、痩せた少年だった。
髪は短く刈られ、頬はこけている。服は粗末だが、ただの路上生活者にしては妙に整っていた。襟元には、何かを剥がしたような跡がある。
ノアは一礼する。
「お帰りなさいませ」
名を呼べないことが、胸に引っかかった。
名前のない死者を迎える時、ノアはいつも少しだけ躊躇する。
誰に帰ってきたと言えばいいのか分からないからだ。
少年の手を清めようとして、ノアは指先を止めた。
手のひらに、硬い皮ができている。
剣だこだった。
農具や荷運びでできるものではない。木剣を何度も握り、打ち込みを繰り返した者の手だ。しかも、年齢にしては古い。
「グリムさん」
ノアが呼ぶと、グリムが近づいた。
「この手を見てください」
グリムは少年の手を見て、顔をしかめた。
「剣を握っていたな」
「かなり長く?」
「少なくとも一年以上。遊びじゃない」
ノアは少年の腕を確認した。
細い。だが、筋肉のつき方が不自然だった。栄養不足の体に、無理やり訓練だけを重ねたような硬さがある。肩には古い打撲痕。背中には細い傷。膝には、何度も転んだ跡。
「孤児の衰弱死ではありませんね」
「訓練で壊れた体だ」
グリムの声は冷たかった。
ミレイを呼ぶと、彼女は少年の遺体を見るなり、いつもの軽口を言わなかった。
「子どもか」
「死因を見てほしい」
「見る」
彼女は短く答え、検査を始めた。
水晶板をかざし、首元、手首、胸、腹部を確認する。少年の体には、治癒魔法の痕跡がいくつもあった。小さな怪我を繰り返し、そのたびに簡易的に治された跡。
だが、最後の怪我は治されていない。
肋骨にひび。
内臓への損傷。
極度の疲労。
栄養不足。
ミレイは低く言った。
「衰弱死だけど、ただの衰弱じゃない。訓練か試験で限界まで追い込まれて、怪我をして、そのまま放置された」
「殺されたのですか」
「直接手を下されたかは分からない。でも、死ぬまで追い込まれた」
ノアは少年の襟元を見た。
何かを剥がした跡。
「ここに徽章があったのかもしれません」
ミレイが覗き込む。
「焼き切った跡だね。布ごと外したんじゃなく、徽章だけを魔術で消した」
「どこの徽章か分かりますか」
「痕跡だけじゃ無理。でも、子ども、剣だこ、訓練痕、治癒魔法、徽章を消された……嫌な組み合わせだね」
グリムが重く言った。
「勇者候補だ」
ノアは顔を上げた。
「勇者候補?」
「正式な勇者になる前の子どもたちだ。王国は、才能のある孤児や地方の子どもを集めて訓練する。聖剣に選ばれたと発表される前に、何人も試される」
「そんな制度があるのですか」
「昔から噂はあった」
グリムは少年の手を見た。
「だが、表には出ない。勇者は神に選ばれることになっているからな。人が選別しているとは言えない」
ノアはユージンの村を思い出した。
役人が来て、検査をして、ユージンを連れていった。
村は聖剣を見ていない。
英雄は、選ばれるのではなく作られる。
その可能性が、少年の小さな手の中にあった。
「身元を調べます」
ミレイがすぐに言った。
「また?」
「名前のないまま、裏墓地へ送れません」
「でも、警備隊の書類には身元不明って」
「書類が知らないだけです」
グリムは黙って頷いた。
ノアは少年の衣服を丁寧に確認した。内側の縫い目、靴の底、袖口。どこかに名前や記号が残っていないか探す。
すると、靴の中敷きの裏に、小さな数字が書かれていた。
七三。
名前ではない。
番号だった。
ノアの胸が冷える。
少年は、名ではなく番号で管理されていたのか。
その時、作業室の扉が叩かれた。
入ってきたのはエリシアだった。ノアが呼んだわけではない。彼女は最近、聖務庁での祈祷を制限され、時折レクター葬儀社へ手伝いに来ていた。
「ノアさん。聖務庁の記録室で、先日のリナの治療所記録を探していたのですが……」
そこで彼女は棺の中の少年を見た。
言葉が止まる。
「子ども……?」
「身元不明の少年です。ですが、勇者候補だった可能性があります」
エリシアの顔色が変わった。
「勇者候補」
「何か知っていますか」
彼女はすぐには答えなかった。
「私の兄ルシアンも、かつて勇者候補として選ばれたと聞いています」
ノアは息を呑んだ。
エリシアの兄。
行方不明になった勇者候補。
聖務庁では魔王に殺されたとされていた兄。
「兄は、王都北区の施設に送られました。正式名称は、王立養護院。でも、聖務庁では別の名前で呼ばれていました」
「何と?」
エリシアは小さく答えた。
「選定院」
その言葉を聞いた瞬間、作業室の空気が重くなった。
選定院。
英雄になる子どもを選ぶ場所。
ノアは少年の番号を見た。
七三。
この子は、選ばれなかったのか。
それとも、選ばれる前に壊されたのか。
「その施設へ行きましょう」
エリシアは震える声で言った。
「兄のことも、そこに何か残っているかもしれません」
ノアは少年の棺に目を向けた。
名前のない少年。
番号だけを残された子。
勇者になれなかった子ども。
彼の死は、次の扉を開こうとしている。
そしてその扉の向こうには、エリシアの兄の名前も消えているのかもしれなかった。




