第17話 勇者を降りる権利
ユージンの母は、寝込んでいると言われていた。
それでもノアは、彼女に会う必要があると感じた。
ユージンが強く拒んだため、最初は諦めようとした。だが、エリシアが静かに言った。
「死んだことにするなら、なおさら、ご家族の心も棺に入れることになります」
その言葉に、ユージンは何も言えなくなった。
クロフト家は、村の端にある古い農家だった。
母親のマリアは、寝台に横になっていた。髪は白く、顔には深い疲労が刻まれている。だが、ノアたちを見る目ははっきりしていた。
「王都の葬儀屋さんですか」
「はい。レクター葬儀社のノアです」
「ユージンの葬儀をしてくださるとか」
ノアは少し迷い、頷いた。
「その件で、お話を伺いに来ました」
マリアは枕元の小箱を開けた。中には、幼いユージンが使っていた木の笛や、古い手紙が入っている。
「この子は、勇者向きじゃありませんでした」
彼女は穏やかに言った。
「小さい頃から、虫も殺せない子で。畑のねずみを逃がして、父親に怒られて。泣きながら風車の下に隠れていました」
ユージンは部屋の外にいた。扉の陰で、母の声を聞いている。
「でも、王都の役人が来て、あの子には素質があると言った。村はお祭り騒ぎでした。勇者の母になったと、私は皆に祝われました」
マリアの声が少し震える。
「私も、嬉しかったのです」
それが彼女の痛みだった。
息子が連れていかれる悲しみより先に、誇らしさを感じてしまったこと。
「王都へ行く朝、ユージンは泣いていました。でも私は言いました。あなたは選ばれたのよ、しっかりしなさい、と」
マリアは目を閉じる。
「本当は、行きたくないなら行かなくていいと言うべきでした」
エリシアが俯く。
ノアは尋ねた。
「ユージン様が、もし生きていたら」
マリアの目が開いた。
その視線は、まっすぐノアに向いた。
「生きているのですか」
部屋の空気が止まった。
ノアは答えなかった。
だが、母親にはそれで十分だったのかもしれない。
マリアの目から涙が一筋流れた。
「そう」
彼女は微笑んだ。
「生きているのね」
扉の外で、かすかな物音がした。
ユージンが泣いているのだと、ノアには分かった。
マリアは声を震わせながら続けた。
「葬儀屋さん。あの子が帰れないなら、帰らなくていいのです。私たちに会えないなら、それでもいい。ただ、生きているなら」
彼女は胸元を押さえた。
「生きているなら、それだけでいい」
ノアは何も言えなかった。
死者を弔う葬儀師は、遺族の悲しみを何度も見てきた。
だが、生きている息子を死んだことにしなければ守れない母の悲しみは、初めてだった。
部屋を出ると、ユージンが壁にもたれていた。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「母さん、怒ってたか」
「生きていてくれれば、それでいいと」
ユージンはしゃがみ込んだ。
「俺、何なんだろうな」
誰も答えなかった。
「勇者でもない。息子にも戻れない。死んだことにされたのに、死ぬ勇気もない」
ノアは彼の前に膝をついた。
「勇者をやめることは、死ぬことではありません」
ユージンは顔を上げる。
「でも、勇者ユージンは死んだことになってる」
「なら、勇者ユージンを弔いましょう」
「俺を?」
「あなた自身ではありません」
ノアは静かに言った。
「あなたを縛っていた役割をです。勇者という名前を、棺に入れます」
エリシアが目を見開いた。
「生前葬……いえ、役割の葬儀」
「そんなこと、できるのか」
ユージンが呟く。
「葬儀は、死者だけのものではありません」
ノアは父の言葉を思い出していた。
人は何度も何かを失う。
そのたびに、心の中で小さな葬儀をする。
それに名前と形を与えるのも、葬儀師の仕事だ。
「勇者ユージンは、王国の記録では死にます。ですが、あなたは生きる」
「別人として?」
「はい」
「名前も捨てて?」
「必要なら」
「逃げ続けて?」
「生きるためなら、逃げてもいいと思います」
ユージンは信じられないものを見るようにノアを見た。
「勇者が逃げてもいいのか」
ノアは答えた。
「勇者である前に、人間です」
その言葉を聞いた瞬間、ユージンの顔が歪んだ。
彼は声を出して泣いた。
子どものように。
勇者ではなく、農家の三男として。
その夜、ノアたちは風車の下の小屋に集まった。
村人には知られないよう、明かりは小さくした。参列者はノア、エリシア、ユージン、そして遠くから見守るグリムだけ。
ミレイは王都で偽の遺灰を調べている。
小屋の中央には、小さな木箱が置かれた。
中に入れるものは、ユージンが自分で選んだ。
勇者の徽章。
折れた訓練用の短剣。
王都から届いた任命状。
そして、聖務庁でもらった祈り布。
「これ、エリシアさんがくれたやつだ」
ユージンは気まずそうに言った。
エリシアは少し悲しそうに微笑んだ。
「覚えています。あなたが、家に帰れるか聞いた日ですね」
「ごめん。祈ってくれたのに、逃げた」
「謝らないでください」
エリシアは首を振った。
「あなたを送り出す言葉しか言えなかった私の方こそ、謝らなければなりません」
ユージンは木箱の中に祈り布を入れた。
「これで終わりにしたい」
ノアは頷いた。
「では、始めます」
棺ではない。
遺体もない。
死者もいない。
それでも、それは確かに葬儀だった。
ノアは木箱の前に立つ。
「勇者ユージン・クロフト」
ユージンが肩を震わせる。
「あなたは、王国に選ばれ、多くの期待を背負いました。人々はあなたを英雄と呼びました。あなたもまた、その名に応えようとしました」
小屋の外で、風車がゆっくり回っている。
「けれど、あなたは人を殺すことに耐えられませんでした。敵と呼ばれた者にも顔があり、声があり、守りたいものがあると知ってしまったからです」
ユージンは目を閉じた。
「その弱さを、私は罪とは呼びません」
エリシアが息を呑む。
「逃げたことを、私は恥とは呼びません。生きたいと願ったことを、裏切りとは呼びません」
ノアは木箱に手を添えた。
「本日ここに、勇者ユージンという役割を弔います」
ユージンの膝が震える。
「あなたはもう、勇者でなくていい」
その言葉が小屋の中に落ちた。
ユージンは両手で顔を覆った。
「生きていいのか」
「はい」
「誰も救えなかったのに」
「それでも」
「逃げたのに」
「それでも」
「勇者じゃないのに」
ノアは答えた。
「勇者でなくても、人は生きていいのです」
エリシアが静かに祈った。
「この方が背負わされた名を、どうかここに置いていけますように。これからの道が、逃亡ではなく、生きるための旅になりますように」
ユージンは木箱の蓋を閉じた。
その音は、小さな棺を閉じる音に似ていた。
だが、そこに絶望はなかった。
終わらせるための音だった。




