第16話 逃げた英雄
クロフト村は、王都から馬車で半日ほど東にあった。
麦畑が広がる、小さな農村だった。
遠くには古びた風車が一基、ゆっくりと羽を回している。王都の鐘楼とは違う、のどかで乾いた音が風に混じっていた。
ノアとエリシアは、村の入口で馬車を降りた。
本当はエリシアを連れてくるつもりはなかった。彼女は第3章以降、聖務庁から目をつけられている。だが、彼女はユージンの名を聞くと、自分も行くと言った。
「ユージン様の出立前、聖務庁で祈りました」
馬車の中で、エリシアはそう話した。
「彼は、カイル様とは違って明るい方でした。田舎の母に手紙を書くんだと、何度も言っていました。でも……」
「でも?」
「祈りの最後に、小さく聞いたのです。『勇者に選ばれたら、もう家には帰れないんですか』と」
その問いを、ノアは忘れられなかった。
勇者に選ばれることは、名誉だとされている。家族は誇り、村は祝福し、王国は讃える。
だが、選ばれた本人が最初に思うのは、家へ帰れなくなる恐怖かもしれない。
村人たちは、よそ者の二人を警戒した。
「ユージンの葬儀?」
畑仕事をしていた老人は、ノアの言葉を聞くと顔を曇らせた。
「王都でやるんだろう。俺たちには関係ねえ」
「ご家族に話を聞きたいのです」
「やめとけ。母親は寝込んでる。父親は王国の役人を恨んでる。兄弟は、ユージンの名を出すと怒る」
「なぜですか」
老人は周囲を見回し、声を落とした。
「勇者になんて選ばれなきゃよかったんだよ。あいつは、畑を継ぐでもなく、剣がうまいでもなく、ただ少し魔力が強かっただけだ。それを王都の連中が連れていった」
エリシアが唇を結ぶ。
「聖剣に選ばれたのでは」
老人は苦笑した。
「そう言われてる。だが、聖剣なんて俺たちは見てねえ。役人が来て、検査をして、ユージンを連れていった。村は祝えと言われた。逆らえるか?」
ノアは胸の奥が冷えるのを感じた。
勇者候補の孤児院。
国家による選別。
英雄制度。
第6章で向かうはずの闇が、ここでも薄く顔を出していた。
「風車の下に、何かありますか」
ノアが尋ねると、老人の顔色が変わった。
「誰に聞いた」
「棺の中に、印がありました」
老人はしばらく黙り、やがて諦めたように息を吐いた。
「あそこは、ユージンが子どもの頃によく隠れてた場所だ。怒られると風車の下の小屋に逃げる。母親が迎えに行くまで、絶対出てこなかった」
「今も?」
老人は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ノアとエリシアは風車へ向かった。
麦畑の中を通る細い道。風が吹くたび、穂が波のように揺れる。王都の重い石畳とは違い、土の匂いが近い。
風車の下には、半ば朽ちた小屋があった。
扉は閉まっている。
だが、内側から何かを動かした跡がある。
ノアは扉の前で立ち止まった。
「ユージン・クロフト様」
返事はない。
「レクター葬儀社のノアです。あなたの葬儀を任されています」
中で、物音がした。
エリシアが息を呑む。
ノアは続けた。
「棺は空でした。遺灰も偽物でした。あなたが生きているなら、話を聞かせてください」
長い沈黙。
やがて、扉の向こうからかすれた声がした。
「帰れ」
若い男の声だった。
「俺は死んだことになってる。それでいい」
「よくありません」
ノアは静かに言った。
「棺に入っていない人を、死者として弔うことはできません」
扉が乱暴に開いた。
中にいたのは、痩せた青年だった。
乱れた茶色の髪。伸びた無精髭。汚れた農夫服。腰に剣はない。かつて勇者と呼ばれた面影は、ほとんどなかった。
だが、目だけはひどく怯えていた。
「弔えばいいだろ!」
青年は叫んだ。
「灰でも、空箱でも、何でもいい。勇者ユージンは死んだ。そうしてくれ。俺はもう、あれじゃない」
「あれ?」
「勇者だよ!」
彼は胸を押さえた。
「俺は勇者なんかじゃない。ただの農家の三男だ。畑仕事も下手で、兄貴たちより力もなくて、でも少し魔力があったから連れていかれた。剣を持たされて、魔王を倒せと言われて、みんなが期待して……」
声が震える。
「俺は、魔王が怖くて逃げたんじゃない」
エリシアが一歩近づいた。
「では、なぜ」
ユージンは彼女を見た。聖務庁の徽章に気づいたのか、一瞬身構える。
「殺すのが怖かった」
その声は、風車の軋む音に混じりそうなほど小さかった。
「魔王軍だって言われた。敵だって言われた。人間じゃないから斬れって。でも、前線で見たのは、逃げる母親とか、子どもを抱えた兵士とか、怪我した仲間を引きずる魔族だった。俺たちと同じだった」
ノアはカイルの守り人形を思い出した。
魔王領の子どもたち。
ユージンの目には涙が浮かんでいた。
「俺が剣を振ると、誰かが死ぬ。勇者だから正しいって、みんな言う。でも、斬った相手の顔が夜に出てくる。助けてくれって言うんだ」
彼は膝をついた。
「俺は、勇者をやめたかった。でも、やめる場所がなかった。逃げたら裏切り者。帰ったら村に迷惑がかかる。死んだら英雄になれる。だから、死んだことにしてもらった」
ノアは静かに尋ねた。
「英雄管理局が?」
ユージンは頷いた。
「任務失敗を隠したかったんだろう。俺も死んだことにしてほしかった。利害が合った」
「ご家族には」
「言ってない。言えない」
彼は顔を歪める。
「母さんは、俺が勇者になったことを泣いて喜んだ。村の誇りだって。今さら、逃げて帰ってきたなんて言えるか」
エリシアが悲しそうに言った。
「でも、お母様はあなたが生きていると知ったら」
「喜ぶ?」
ユージンは笑った。乾いた、壊れた笑いだった。
「そのあとどうなる? 英雄管理局が来る。村が疑われる。俺を匿ったって、父さんも母さんも兄貴たちも罰を受ける。だったら、俺は死んだままでいい」
ノアは何も言えなかった。
空の棺の理由は、単純だった。
ユージンは生きている。
だが、生きていることを許されていない。
王国にとっては、逃げた勇者より、死んだ勇者の方が扱いやすい。
本人にとっても、帰れない生より、死んだことにされた名前の方が楽だった。
「ノアさん」
エリシアが小さく呼んだ。
彼女の顔には、迷いがあった。
ユージンを救いたい。だが、どう救えばいいか分からない。
ノアも同じだった。
葬儀師の仕事は、死者を送ること。
だが、目の前にいるのは、生きているのに死者として扱われようとしている人間だ。
「ユージン様」
ノアは言った。
「あなたは、本当に死にたいのですか」
ユージンは黙った。
「勇者として死にたいのではなく、あなた自身が死にたいのですか」
長い沈黙。
風車が軋む。
ユージンは唇を震わせた。
「……生きたいよ」
その声は、泣いている子どものようだった。
「でも、どうやって生きればいいか分からないんだ」
ノアは、空の棺を思い出した。
死んでいない者を弔うことはできない。
だが、死んだことにしなければ生きられない名があるなら。
弔うべきは、人ではなく役割なのかもしれない。
勇者ユージンという、彼を縛る名前を。




