第11話 父の遺した弔辞
父の字は、死んだあとも静かだった。
夜のレクター葬儀社で、ノアは机の上に置いた紙片を見つめていた。
外では雨が細く降っている。作業室のランプの火が揺れるたび、古い紙の影もわずかに動いた。
名前を奪われた英雄を葬る時、弔辞を書き換えてはならない。
ただし、記録だけは残せ。
いつか、誰かが棺を開ける日のために。
その文字は、確かに父のものだった。
ノアの父、イザーク・レクター。
王都の外れで葬儀社を営んでいた、寡黙で頑固な葬儀師。
死者に対してだけは、王侯貴族にも平民にも罪人にも、同じ礼を尽くす人だった。
三か月前、父は心臓発作で死んだ。
そう記録されている。
ノアも、最初は信じようとした。
父は若くはなかった。無理もしていた。勇者の葬儀は体力も精神も削る。突然倒れても、不思議ではないのだと。
だが、勇者カイルの死を見た。
聖女候補リナの死を見た。
魔法使いアルトの手紙を読んだ。
記録は、死者を守るものではなかった。
時に、死者を閉じ込める棺になる。
ノアは紙片をそっと持ち上げた。
裏には、何も書かれていない。封筒にも差出人はなかった。誰かが夜のうちに、作業室の扉の下から差し入れたものだ。
父の言葉を持っていた誰かがいる。
そして、その誰かは今、ノアに何かを伝えようとしている。
「眠れなかった?」
声がして振り向くと、ミレイが裏口から入ってきた。手には紙袋を抱えている。朝食らしい硬いパンと、湯気の立つ薬草茶の瓶が見えた。
「顔、ひどいよ。死者より青い」
「死者に失礼です」
「じゃあ、死者より生気がない」
ミレイは机の上の紙片に目を留めた。軽い表情が消える。
「それが、昨日の?」
ノアは頷いた。
「父の字です」
「誰が持ってたんだろうね」
「分かりません」
ミレイは紙片を覗き込み、眉を寄せた。
「名前を奪われた英雄……」
「アルト様のことかと思いました。でも、父がこの言葉を書いたのは、もっと前です」
「お父さんが最後に担当した葬儀?」
ノアは黙って立ち上がった。
作業室の奥には、父の使っていた書庫がある。壁一面に葬儀台帳が並び、年月順に整理されているはずだった。
ノアは一冊ずつ確認した。
一般葬儀。
戦死者葬儀。
勇者葬儀。
聖務庁関係者。
身元不明者。
裏墓地埋葬者。
父の筆跡はどの台帳にも几帳面に残っていた。
死者の名。
年齢。
身元。
公式死因。
確認事項。
葬儀形式。
弔辞の有無。
遺族への引き渡し記録。
だが、父が死ぬ直前の月だけ、不自然な空白があった。
「ここです」
ノアは台帳を開いた。
父が亡くなる五日前。
日付の欄だけがあり、その下のページが切り取られている。
刃物で丁寧に切られていた。
破ったのではない。
誰かが、記録を消すために切り取った。
ミレイが息を呑んだ。
「一ページ丸ごと?」
「いえ」
ノアは次のページをめくった。
切り取られた跡は、二枚分ある。つまり四ページ。ひとつの葬儀記録としては長い。
父は、通常の葬儀記録よりも多くのことを書いたのだろう。
だから、誰かがそれを消した。
「お父さんが自分で?」
ミレイが尋ねる。
ノアは首を振った。
「父は記録を切り取りません。どんな危険な内容でも、別紙に写して隠すことはあっても、台帳そのものは傷つけない人でした」
「じゃあ、誰かが書庫に入った」
「父の死後か、死ぬ前か」
ノアは棚の下段を確認した。父は重要な葬儀の弔辞下書きを、台帳とは別に保管していた。箱のラベルには、葬儀の種類ごとに細かい分類がある。
勇者。
聖女。
戦死者。
罪人。
身元不明。
未分類。
ノアは「未分類」の箱を開けた。
古い紙の匂いが立ち上る。
中には、使われなかった弔辞の下書きがいくつも入っていた。病死した貴族のためのもの、事故で亡くなった双子のためのもの、身元不明者に向けた短い祈り。
その奥に、一枚だけ質の違う紙があった。
黒い封蝋の跡。
王国の正式な羊皮紙。
だが、宛名は削られている。
ノアはそれを開いた。
父の筆跡だった。
あなたの名は、王国の記録から消されるでしょう。
あなたの功績は、別の誰かのものになるでしょう。
あなたの死は、病死でも戦死でもなく、都合の悪い沈黙として処理されるでしょう。
それでも、私はあなたを葬る。
名前を呼べなくても、あなたがここに帰ってきたことだけは、私が覚えている。
ノアの指先が震えた。
「父さん……」
ミレイは横から紙を覗き込み、低く呟いた。
「これ、弔辞だね。でも、誰宛てか分からない」
ノアは続きを読んだ。
あなたは英雄ではなかった。
少なくとも、王国が望む形の英雄ではなかった。
あなたは命令に背き、物語に背き、記録に背いた。
だから名を奪われた。
だが、死者の名を奪う権利は、王にも局長にもない。
局長。
その言葉に、ノアは目を止めた。
英雄管理局の局長。
オルガン・レイス。
今の局長も、オルガンだ。
父の死の時点でも、すでに彼は英雄管理局を率いていたはずだ。
ノアは紙をめくった。
しかし、次の部分は黒く塗り潰されていた。誰かがあとからインクで覆ったのだ。父の文字は読めない。
最後の一文だけが残っていた。
弔辞は書き換えられても、死者は書き換えられない。
ノアは息を吐いた。
その瞬間、胸の奥に冷たい感覚が走る。
勇者カイルの時と同じ。
死に嘘がある時の違和感。
父の残した弔辞そのものが、何かを訴えているようだった。
「この死者は、誰だったのでしょう」
ミレイは考え込む。
「名前を奪われた英雄。命令に背いた。記録に背いた。局長が関わってる。お父さんが最後に葬った」
「台帳は切り取られ、弔辞は塗り潰された」
「これ、ただの病死の話じゃないね」
ノアは父の弔辞を両手で持った。
死者に向けた言葉なのに、まるで父自身の遺書のようだった。
父は、この死者を弔った。
その記録を残そうとした。
そして、死んだ。
心臓発作として処理された。
「父の死因記録を見ます」
ノアは別の棚から、家族葬の台帳を取り出した。
イザーク・レクター。
享年五十六。
死因、急性心不全。
遺体確認、英雄管理局付き医師マルクス・ヘイル。
葬儀、レクター葬儀社にて簡易葬。
ノアは眉を寄せた。
「英雄管理局付き医師……?」
ミレイが台帳を覗き込む。
「なんで葬儀師の病死を、英雄管理局の医師が確認してるの?」
「分かりません。父は英雄管理局の職員ではありません」
「でも、勇者葬儀には関わってた」
ノアは台帳を閉じた。
父の死にも、英雄管理局がいた。
今まで見ようとしなかっただけだ。
葬儀師である自分が、父の死を一番調べていなかった。
父の死だけは、病死だと信じたかったのかもしれない。
それが一番、耐えやすかったから。
その時、玄関の鈴が鳴った。
こんな朝早くに、葬儀依頼だろうか。
ノアが応接室へ出ると、扉の向こうに灰色の外套を着た男が立っていた。
雨は降っていないのに、彼の靴には水滴一つついていない。
灰色の髪を後ろで束ねた、静かな目の男。
英雄管理局局長。
オルガン・レイスだった。
「ノア・レクター」
彼は穏やかに言った。
「君の父の話をしに来た」




