第10話 真実を明かせない葬儀
アルトの葬儀に、鐘は鳴らなかった。
場所は、王都の外れにある裏墓地だった。
王国に認められた英雄や貴族が眠る白い墓地ではない。罪人、身元不明者、引き取り手のない者たちが埋葬される、湿った土の匂いがする場所だ。
空は低く曇っていた。
参列者は、ノア、ミレイ、グリムの三人だけ。
聖務庁の祈り手も、英雄管理局の役人も来なかった。
来ないはずだった。
だが墓地の入口に、白い外套の人影が立っていた。
エリシアだった。
ノアは息を呑んだ。
「どうして」
彼女は少し息を切らしていた。急いで来たのだろう。聖務庁の目を盗んだのか、外套の下に聖衣は着ていない。
「今日、アルト・ヴェインという人が埋葬されると聞きました」
「誰からですか」
「聖務庁の記録室で、名前を見ました。処分者名簿に」
彼女は棺を見た。
「同じ姓だったので、気になって」
ノアは手紙の存在を思い出す。
エリシアの名。
巻き込まないでくれという、死者の願い。
「エリシアさん」
「はい」
「アルト様をご存じですか」
彼女は首を振った。
「直接は。けれど、ヴェインは私の母方の姓です。親族かもしれません」
親族。
まだ深い関係とは限らない。
ノアは少し安堵し、同時に苦しくなった。
手紙には、彼女を巻き込むなとあった。
ならば今、この場で何も言わない方がいい。
「この葬儀は、王国から最低限の埋葬だけを許されたものです」
「裏切り者だから、ですか」
「そう記録されています」
「本当に、そうなのですか」
ノアは答えられなかった。
エリシアは、ノアの沈黙を見つめた。
「また、記録と違うのですね」
「……今は、言えません」
その言葉は、嘘ではない。
だが真実でもなかった。
エリシアは少し傷ついた顔をしたが、問い詰めなかった。
「では、祈ってもいいですか」
「彼は、王国では裏切り者とされています」
「死者です」
彼女は静かに言った。
「それだけで、祈る理由になります」
ノアは頷いた。
小さな葬儀が始まった。
棺は粗末だったが、グリムが昨夜のうちに補強し、蓋には小さな青い石を埋め込んでいた。アルトの割れたペンダントから外した欠片だった。
ミレイは、遺体に簡素な死化粧を施した。処刑痕を隠しすぎず、しかし苦しみだけが残らないように。アルトの口元には、生前の穏やかさが戻っていた。
ノアは棺の前に立った。
手には、自分で書いた弔辞。
だが、そこにアルトの真実はすべて書かれていない。
勇者パーティーを裏切っていないこと。
カイルの死を知っていたこと。
仲間を守るために罪をかぶったこと。
エリシアの名を手紙に残したこと。
何一つ、声に出せない。
ノアは息を吸った。
「アルト・ヴェイン様」
風が墓地の草を揺らす。
「あなたの旅は、ここで終わります。王国の記録には、あなたの名がどのように残るのか、私は知っています」
エリシアが顔を上げた。
「けれど、記録に残る言葉だけが、人のすべてではありません」
ノアは棺を見る。
「あなたは、誰にも知られない選択をしました。その選択が正しかったのか、私には分かりません。誰かを傷つけたのかもしれない。誰かを救ったのかもしれない」
グリムが目を伏せる。
ミレイは黙って聞いている。
「それでも、あなたが最後まで何かを守ろうとしたことだけは、この棺が知っています」
ノアの喉が詰まった。
本当は、言いたかった。
彼は裏切り者ではない。
彼は仲間を守った。
彼は王国の嘘を一人で背負った。
けれど、それを言えば、アルトが守ろうとした人々が危険にさらされる。
真実を明かさない葬儀。
それは、これまでで一番苦しい弔いだった。
「どうか、もう一人で背負わずに眠ってください」
ノアは弔辞を閉じた。
「お帰りなさいませ、アルト様」
エリシアが祈りを捧げた。
聖務庁の正式な祈祷文ではなかった。短く、静かな祈りだった。
「名をどう記されようとも、この方の魂が、偽りではなく安らぎのもとへ帰れますように」
その言葉に、ノアは目を閉じた。
偽りではなく。
彼女は何も知らない。
けれど、なぜか届いてしまう。
棺が土へ下ろされる。
土が一掴みずつかけられていく。湿った音が、静かな墓地に響く。
葬儀が終わると、エリシアはノアの隣に立った。
「ノアさん」
「はい」
「あなたは、何かを隠していますね」
ノアはすぐには答えなかった。
「はい」
「それは、私に関係がありますか」
手紙の文字が脳裏に浮かぶ。
エリシア・ヴェイン。
どうか、巻き込まないでくれ。
「分かりません」
ノアは、そう答えるしかなかった。
エリシアは少しだけ悲しそうに笑った。
「分かりました。今は、聞きません」
「すみません」
「でも、いつか話してください。死者のためだけではなく、生きている私にも知る権利があるなら」
ノアは頷いた。
「その時が来たら、必ず」
エリシアは墓に向かって一礼し、去っていった。
白い外套が曇り空の下で小さくなっていく。
ミレイがぽつりと言った。
「優しい嘘って、あると思う?」
ノアは答えられなかった。
グリムが土のついた手を払う。
「優しいかどうかは、生きてるやつが決めることじゃない」
「じゃあ、誰が決めるの」
「死んだやつだ」
ミレイは肩をすくめた。
「それ、一番聞けない相手じゃん」
「だから面倒なんだ」
ノアはアルトの墓を見た。
墓標には、名前だけが刻まれている。
アルト・ヴェイン。
裏切り者とも、英雄とも書かれていない。
それが、今できる精一杯だった。
その夜、ノアはレクター葬儀社に戻り、台帳を開いた。
アルト・ヴェイン。
公式記録、勇者パーティーを裏切り、逃亡を図ったため処分。
確認事項。
処刑魔術痕。
拘束痕。
棺底部の封印手紙。
勇者カイル事件との関連。
生存者保護のため、内容非公開。
最後の一文を書くまでに、時間がかかった。
彼は、裏切り者ではなかった。
ノアは羽ペンを置いた。
書いてしまえば簡単な一文だ。
だが、その一文を公にできない。
台帳の中だけに残る真実。
それは、死者を救ったことになるのだろうか。
それとも、王国の嘘に小さく加担しただけなのだろうか。
机の上には、三つの記録が並んでいる。
勇者カイル。
聖女候補リナ。
魔法使いアルト。
三人とも、王国の物語とは違う死を抱えていた。
カイルは、背中から死んでいた。
リナは、祈り続けさせられて死んだ。
アルトは、裏切り者ではなかった。
ノアはランプの火を弱めた。
その時、作業室の扉が小さく軋んだ。
風かと思った。
だが、扉の隙間から一通の封筒が差し込まれていた。
ノアは立ち上がり、封筒を拾う。
差出人はない。
中には、古い紙片が一枚。
そこには、父の筆跡でこう書かれていた。
名前を奪われた英雄を葬る時、弔辞を書き換えてはならない。
ただし、記録だけは残せ。
いつか、誰かが棺を開ける日のために。
ノアの手が震えた。
父の筆跡。
間違いない。
なぜ今、これが届いたのか。
誰が持っていたのか。
そして、名前を奪われた英雄とは誰なのか。
ノアは父の台帳が並ぶ棚を見た。
勇者カイルの棺。
聖女リナの棺。
魔法使いアルトの棺。
そして今、父の残した言葉。
すべてが、一つの場所へ向かっている気がした。
ノアは紙片を台帳に挟んだ。
真実を明かせない葬儀がある。
それでも、記録だけは残さなければならない。
死者の名が奪われても。
弔辞が書き換えられても。
墓標に嘘が刻まれても。
いつか誰かが棺を開ける日のために。
ノアは作業室の灯りを消す前に、アルトの手紙をもう一度見た。
どうか、巻き込まないでくれ。
死者の願いは重い。
だが、守るだけでは終わらない。
いつか、エリシアにも話す日が来る。
アルトがなぜ彼女の名を残したのか。
彼が何を守ろうとしたのか。
今はまだ、その時ではない。
ノアは手紙を封筒に戻し、台帳の奥へしまった。
そして、誰もいない作業台へ向かって一礼する。
「おやすみなさい、アルト様」
外では、雨が降り始めていた。
また雨だ。
王都の雨は、死者にやさしくない。
けれど今夜の雨音は、どこか手紙を読む音に似ていた。
誰にも届かないはずだった言葉が、棺の底から、ようやく一人の葬儀師の手に届いた音に。




