第9話 舞台袖に残る代役署名
王都歌劇場の舞台袖は、二週間離れただけでひどく狭く見えた。
北辺侯の照会状を持って入り、私は衣装庫の裏にある旧署名棚を開けてもらった。代役登板や歌唱変更のたびに、出演者はここへ署名を残す。配役台帳と並ぶ、もうひとつの真実だ。
「まだ残っているとは思わなかった」
私が呟くと、舞台記録係のヘレーネが肩をすくめた。四十歳、口が堅くて恩を忘れない女性だ。
「あなたがいた頃は、全部残せってうるさかったでしょう」
箱を開く。慈善公演前夜の署名綴り、その中ほどに、私の名があった。だが書き順が違う。私なら最後に長音をはらわない。しかも筆圧が軽すぎる。
「偽署名です」
「やっぱり」
ヘレーネが低く言う。
「あの日、あなたはまだ署名してなかった。リゼット様が先に袖へ来て、支配人補佐と何か話していたの」
私は綴りの裏面を撫でた。透けるように、下書きの跡が見える。誰かが私の過去の署名をなぞって練習した線だ。
「これで、私が自分から主役を降りたことにはできない」
さらに箱の底から、第二幕の歌唱補助表が出てきた。主旋律補助欄に別名がある。『A.ライナー』。王都歌劇場の合唱主任アデル・ライナー、三十六歳。彼女は高音の影歌を担当できる数少ない人だった。
「リゼットはあの大詠唱を一人で歌っていなかったのね」
ヘレーネは視線を落とす。
「私は見ていない。でも、アデルが幕の裏で立っていた夜はあった」
それで繋がった。私の改訂旋律、偽署名、慈善公演の虚飾。妹は自分一人の実力で主役になったのではない。裏で誰かの声と誰かの記録を借りていただけだ。
私は署名綴りと補助表の写しを取る。
「ありがとう、ヘレーネ」
「返せる恩があって良かったわ」
歌劇場を出る時、私は舞台袖を一度だけ振り返った。昔はここが私の場所だった。けれど今は違う。戻るなら、奪われた側としてではなく、真実を連れて戻る。




