第6話 無口な北辺侯の最前列席札
その日の朝、私の机には白い席札が一枚置かれていた。
客席一列目中央、A-1。裏面には短い字で『再開幕の日まで確保』とだけ書かれている。署名はないが、こんな無愛想な文字を書く人間は一人しかいない。
「侯が置いていったわよ」
グレータが笑う。
「あの人、激励が苦手だから。代わりに席を確保するの」
「席札で励ますんですか」
「北辺侯なりには甘い方」
私は席札を指先でなぞった。舞台の仕事をしている人間にとって、最前列の一席は言葉より雄弁だ。見ている、待っている、逃げるな。そう言われている気がした。
午前中は北辺劇場の座席台帳を整理した。王都からの巡業記録では満席になっている日がいくつもあるのに、実際の販売控えは三十席にも満たない。しかも同じ筆跡でまとめて書かれた後付けの来場名が並んでいた。
「この名前、半分は存在しません」
地元商会の名簿と照合しながら、私は呟く。
「架空客席で満席を作った」
フリードリヒは机の向かいで黙って帳簿を眺めていたが、やがて一通の封書を差し出した。
「王都への照会許可書だ。必要なら俺の印で出せ」
「早いですね」
「舞台は待ってくれない、と君が言った」
覚えていたのか、と少しだけ驚く。私は許可書を受け取り、席札の横へ並べた。
「ノルトハイム侯は観劇も仕事も、席を取るのが早いんですね」
「遅いと奪われる」
それだけ言って、彼は視線を逸らした。たぶん冗談ではなく、本気だ。
午後、私は新しい再開幕計画表を作った。まずは小編成の朗読歌劇から。空席を埋めるには、虚飾ではなく確実に鳴る音を積み上げるしかない。
作業が終わる頃、窓の外では客席修理の職人たちが椅子を磨いていた。最前列のA-1だけ、先に赤布が掛け直されている。
席札を鞄へしまいながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。
端役でもいいと思っていた昔とは違う。いまは、待たれている席がある。




