第4話 割れた舞台鈴と空席だらけの客席
北辺劇場の最初の歓迎は、拍手ではなく埃だった。
石造りの外壁は立派なのに、玄関扉を開けた瞬間、冷えた空気と古い木の匂いが押し寄せる。客席の赤布は色褪せ、舞台前の呼び鈴はひび割れ、緞帳の端はほどけたままだ。
「ひどいでしょう」
そう言って肩をすくめたのは、劇場支配人代理のグレータ・ヘルマン。四十五歳の元舞台監督で、声が大きい分だけ隠し事に向かない顔をしている。
「でも、骨組みはまだ死んでいません」
私は舞台床を靴先で叩いた。板の浮きはあるが、全面を張り替えるほどではない。客席の番号札も半分は生きている。
「まず配役台帳と貸出票の所在を見せてください」
「物好きねえ。普通はまず客席や衣装部屋を見るのに」
「裏が壊れていたら、表は立ちません」
案内された事務室の棚には、台帳が三年分だけ残っていた。そこから先が空白になっている。巡業補助金の記録も、王都から衣装が届いたはずの日だけ不自然に薄い。
私は鈴の割れ目を見ながら頁をめくった。開演を知らせるはずの合図が壊れたまま放置されていたように、ここでは『始まったことにされたもの』だけが増え、『本当に動いた記録』が消されている。
「ノルトハイム侯」
私は背後に立つフリードリヒを振り返った。
「この劇場、閉じた理由は赤字だけではありませんね」
「観客が来なかった。来ても続かなかった。王都巡業も途中で打ち切られた」
「打ち切られたのではなく、最初から成立していなかった可能性があります」
貸出台帳の余白に、王都歌劇場の印が押された総譜箱番号があった。だが返却印も受領印もない。
「総譜箱が届かないまま巡業公演は打てない。なのに補助金だけ落ちている」
「追えるか」
「追います。その代わり」
私は割れた舞台鈴を持ち上げた。
「これを直してください。再開幕の日に、ちゃんと鳴らしたいので」
フリードリヒは鈴を受け取り、短く返した。
「明日までに」
言葉の少なさに呆れるより先に、妙な安心がくる。ここでは頼んだことが、頼んだ順で動き出しそうだった。
私は空席だらけの客席を見下ろし、台帳を抱え直す。
誰も座っていない席にも、いつか名前が戻る。そのために、まず消された頁から拾い直す。




