片眼鏡の男
壮年の男だった。この町の人間ではない。右目に、銀縁の片眼鏡をかけている。
手足が長く、すらりと背が高い。
麦の穂色の髪をふわりと頭に撫で付け、真新しい旅装を粋に着こなした洒落者だ。山吹色の襟巻きだけは古ぼけていて、解れ、毛羽立ちが目立つ。長く愛用しているのかもしれない。
甘く整った顔立ちと、華やかな佇まいが人目を惹く。
それでいて、異様に痩せていた。頬は削げ、眼窩は落ち窪み、首は骨と筋にそのまま皮が張り付いているかのよう。風が吹けば飛んでいってしまいそうだ。
右手には杖を携えている。柄頭は掌におさまる球形の銀細工、杖身は黒く艶消しされており、石突も黒い。床をつく度、コツコツと硬い音を立てた。
落ち着き払った若草色の瞳が、エレナを捉える。目を細めると、右目を縦断する古傷が引き攣れた。
銅鑼声の男はエレナの腕を掴んだまま、訝しげに片眼鏡の男を睨みつけ、誰何する。
「なんだ、てめぇは」
その問いに、片眼鏡の男はひょいと肩をすくめた。
「私は旅の者だが」
「……てめぇ、さっき、そこの窓からこっちを覗いてやがったな」
頭目の指摘にも、片眼鏡の男は飄然とした態度を崩さない。
「雰囲気の良い店を探していてね。断じてお前達を見ていたわけではない。私にその手の趣味はないんだ。期待させてしまったのなら、すまないな」
頭目は呆気にとられ、無頼漢たちは色めき立つ。そんなことはお構いなしに、片眼鏡の男は店内を見渡し、片眉を上げた。
「なるほど。状況は把握した。が、念のために確認だ」
片眼鏡の男は、他の誰でもなく、エレナの目を真っ直ぐに見つめる。そして、問い掛けた。
「これは、合意ではないね?」
エレナはこくこくと肯いた。片眼鏡の男には良識があるようだ。助けを呼んでくれるかもしれない。少し行けば民家も店もある。町の人たちは皆、顔見知りだ。酒場の店主とエレナの身が危ないと知ったら、きっと、駆け付けてくれる。そんな期待を込めて。
片眼鏡の男は、杖の柄に施された彫刻を掌で撫でながら、肯いた。
「だろうな」
ところが、片眼鏡の男は動かない。どうして、とエレナは歯痒さに歯噛みせずにはいられなかった。
今すぐ、身を翻して助けを呼びに行って欲しい。もたもたしていたら、片眼鏡の男も逃げられなくなる。
エレナの懸念は的中する。若い男と籠る声の男が席を立ち、カウンターの手前と表口の前に、それぞれ移動したのだ。退路を断たれてしまった。
双剣の男は椅子の背凭れに肘を置いて、片眼鏡の男を振り返る。
「おい、お喋り野郎。耳障りだ、黙ってろ。さもなけりゃ、痛い目に遭うぞ」
「ご忠告、痛み入るよ。どうも。ところで、ひとつ確認したいんだが」
片眼鏡の男は平然としている。武装した無頼漢たちに囲まれていると言うのに、まるで意に介していない。
滑るような足取りで、こちらに歩み寄ってくる。そして、銅鑼声の男が待ち構える、一歩手前で立ち止まった。杖の石突が、こつりと床をつく。
片眼鏡の男はまず、銅鑼声の男を見る。無頼漢たちを順繰りに見て、最後に頭目を見据える。柔和な微笑を絶やさない。しかし、その眉間にはわずかに皺が寄っている。
「お前達は今、その女性に無礼を働いている自覚があるか? 美女に心惹かれるのは男の性だが、無理強いは頂けないぞ。坊やたち」
片眼鏡の男は、噛んで含めるように、そう言った。
外見のみで判断するなら、片眼鏡の男の年齢は、無頼漢たちとそう変わらない。
だからこそ、坊や呼ばわりには、無頼漢たちを幼稚だと侮る意図が込められているとしか考えられなかった。
銅鑼声の男もまた、エレナと同じように考えたのだろう。エレナを放り出し、片眼鏡の男に掴みかかろうとした。
片眼鏡の男は杖を右手から左手に持ち替え、顎を引く。ランタンの灯りを跳ね返し、男の瞳を覆い隠す。
次の瞬間、物語の頁を捲ったかのように、事態は展開していた。
銅鑼声の男が伸ばした腕を、右手で難なく掴み取る。握手を求められ、応えるかのように。
そのまま腕を引き寄せ、腰を捻る。銅鑼声の男の肘が伸びきったところで、くるりと手首を返す。
銅鑼声の男の巨体は大きく傾ぎ、腕はおかしな方へ捻り上げられていた。
凍りついた時の中で、片眼鏡の男だけが変わりなく、ゆるゆると頭を振る。
「そもそも、女性の扱いがなっていない。女性に接するときは、優しく、丁重に。お母様にそう教わらなかったのかな? オイタが過ぎると、それこそ『痛い目に遭う』ぞ。こんなふうに」
そう言うと、片眼鏡の男はひょいと手首を返す。こきりと小さな音が鳴る。次いで、銅鑼声の絶叫が酒場を揺らした。
片眼鏡の男がぱっと手を放すと、銅鑼声の男はどうと倒れ込んだ。悶絶し、床を転げ回っている。
片眼鏡の男は失笑し、やれやれと頭を振った。
「大袈裟な。肘の関節を外しただけだ。うまく嵌め直せば、元通りに動けるようになる」
ここにきてようやく、呆然としていた無頼漢たちがはっと我に返った。
双剣の男が椅子を倒して立ち上がる。手前の席に着いていた男が立ち上がり、右肘を抑え苦悶する仲間の許へ駆け寄る。
双剣の男は目を血走らせて、吠えた。
「野郎、ぶっ殺してやる!」
片眼鏡の男は、殺気立つ双剣の男を流し見た。杖を右手に持ち替えると、柄頭を掌で弄びながら、はてと小首を傾げる。
「やるのは構わんが、ここで良いのか? 私はこう見えて、素寒貧でな。諸々の修理費は、もちろん、お前たち持ちだ。それでもいいなら、受けて立とう」
片眼鏡の男は肩越しにエレナを振り返る。莞爾と微笑み「すまないが、壁際までさがって貰えるかな?」と言った。エレナが言われた通りにすると「ありがとう」と礼を述べ、無頼漢たちに向き直る。
瞬きの間に、柔和な微笑みが、不敵な笑みに変わっていた。
「どうせなら、まとめてかかって来給え。さっさと済ませようじゃないか」
双剣の男のこめかみに、むくむくと青筋が立つ。男が双剣の柄に手を伸ばした。
その手が双剣を掴む寸前。
待ったをかけたのは、頭目だった。
双剣の男が怪訝な顔をして、頭目を振り返る。他の無頼漢たちも、困惑を隠せない様子だ。
頭目は、ジョッキに残った酒を一気に飲み干す。長く重い息を吐き、こう言った。
「手を引け」
水を打ったように、あたりはしんと静まり返る。
双剣の男が眦を決する。頭目の鶴の一声は、双剣の男には受け入れ難いものだったようだ。つかつかと頭目に歩み寄る。
「……おい、お頭。どういうつもりだ。あの野郎に落とし前を」
「いいから手を引け!」
頭目はついに声を荒げた。双剣の男は目を見開き、口を噤む。無頼漢たちは狼狽え、ざわめいた。
片眼鏡の男は、頭目の焦燥と無頼漢たちの混乱をしばらく見物した後、莞爾と微笑んだ。目尻にやわらかく皺が寄った。杖を左手に持ち替え、片眼鏡の男はひらひらと手を振ってみせた。
「話が早くて助かる。では、お休み、諸君。良い夢を」
無頼漢たちがにわかに気色ばむ。しかし、頭目がそれを許さない。
「野郎共、行くぞ。誰か、グランに肩を貸してやれ」
頭目は席を立ち、表口へ向かう。無頼漢たちは戸惑いながら、各々、動き出す。負傷した仲間に肩を貸す者。手を貸そうと申し出る者。双剣の男は片眼鏡の男を憎々しげに睨みつけ、若い男はおろおろしている。椅子を蹴飛ばし悪態をつく者もいた。
慌ただしく帰り支度を整え、頭目の待つ表口へ向かう無頼漢たちを、片眼鏡の男が呼び止めた。
「おっと。待て、待て」
頭目が振り返ると、片眼鏡の男は顎をしゃくり、飲みかけの酒と食べかけの食事、空の食器が散乱したテーブルを示した。
「お勘定を忘れずに。迷惑料として色をつけると、なおよろしい」




