客と店主、或いは、昔馴染み
エレナは言葉を失った。
安請け合いしたつもりはない。その場限りの、可愛らしい戯れに過ぎないと、高を括っていたことは認めざるを得ないけれど。
幾許かの沈黙を挟み、店主が「ああ、そう言えば」と話を切り出した。
「見知らぬ男がお前の店に入って行ったと、ダンが気を揉んでいやがったな」
店主が十歳の息子の背伸びを、正真正銘の恋のように語るのは如何なものかと思うが、指摘すると藪蛇になる気がして、エレナは素直に肯いた。
「旅の方がお見えになったの。読み終えた本を手放したいと仰ってね。数冊、買い取ったわ」
「まともな本なんだろうな?」
「まともじゃない本があるの?」
エレナは混ぜっ返したが、店主はにこりともせずに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「流行りの本で、酷いのがあるだろう」
店主の言う流行りの本が何なのか。エレナはすぐにぴんときた。伊達に古書店を営んではいない。
「『義賊の末路』かしら。読んだの?」
「読むはずがない。話に聞くだけで、怖気が走る」
「そうね」
「……よりによって、あれか」
白を切るという発想が、ちらりと頭を過ぎる。しかし、すぐに打ち消した。嘘をついても、取り繕っても、悪足掻きになる。エレナは観念して肯いた。
「ええ。仕入れた本の中には、義賊の末路もあったわ。まだ、読み終えていないけれど。……途中で、気分が悪くなってしまって、店に置いてきたの」
「読むな、あんなもの」
「読むわよ。内容を知らないと、売れないもの」
「だったら、捨てちまえ。仕入れに使った金が惜しいなら、俺が出してやる」
「本を大切にしないひとは嫌いよ」
「本じゃない。鬼畜外道の所業を羅列した、ただの紙束だ」
取り付く島もないとはまさにこのこと。グラスの表面に浮き出た水滴を掬い取る手遊びをしつつ、どうしたものかと考えあぐねる。本を捨てるという選択肢は、端からあり得ない。
悩むエレナの名を、店主が呼ぶ。顔をあげると、店主と目が合った。真摯にエレナを見つめている。
「お前が、親父さんとセーラの流儀を大切にしてることは知ってる。だがな、もし二人が生きてたら、あんな悍ましいものをお前に読ませたりしないだろう」
店主は噛んで含めるようにして言った。兄貴分の娘ということで、可愛がって貰っている自覚はある。それにしても、大切にされていると、改めて実感する。だから、エレナは心からの感謝を伝えた。
「心配してくれてありがとう。でも、私は平気」
酒精ではなく、店主の思いやりによって、胸がじんわりとあたたまる。それでも、古書店の主としての流儀を曲げるつもりはない。
「正直に言うと、あの本は嫌い。でもね、私にとってはそうでも、お客様にとっては、違うかもしれない。人生を豊かにしてくれる一冊かもしれない。運命の出会いを、私の都合で台無しにすることだけはしたくないの。わかって、おじさん」
それがエレナの信条だ。父の受け売りでもある。
店主は物言いたげに口をもごもごさせたが、何も言わなかった。どんなに言葉を尽くしたところで、エレナは折れないと知っているのだ。
店主は天井を仰ぎ、肩をすくめた。
「やれやれ。頑固なのは父親譲りか」
いけない、湿っぽくなってしまった。とエレナは思う。
すかさず、悪戯っぽく微笑み、軽口を叩いた。
「いいの? そんなこと言って。父さんに叱られない?」
「俺の枕元に立つ暇があったら、お前の枕元に立つだろうさ」
「たまになら、おじさんに譲ってあげてもいいわ」
「そりゃ、どうも。ありがたくて涙が出るね」
店主の憎まれ口にエレナが応酬する前に、円卓の客たちが店主を呼びつける。店主が注文をとりに行っている隙に、エレナはグラスの酒を飲み干した。
戻ってきた店主に、空のグラスを差し出す。
「おかわり、お願い」
「今夜はこれで最後だからな」
店主はそう念押ししてから、グラスに酒を注ぐ。エレナが酒に口をつけるのと同時に、店主が口を開いた。
「その旅人に、妙なことはされなかっただろうな」
エレナは噎せそうになった。旅人の名誉を守るべく、急いで否定する。
「まさか! なんてこと言うの。失礼でしょう」
「まさかじゃねぇ。あんないかがわしい本を好んで読む上に、若い女が営む古書店に売り払うような輩だぞ」
「それは偏見よ」
「どうだか。そもそも、余所者は信用ならん」
「そんなこと言っていられないわ。最近は、旅の方がこの町を訪れることも多いのだから。今日だって、件の旅の方と入れ替わりに、新しい旅の方がいらしたのでしょう?」
「ああ。なんでも、今朝、この町を訪れたらしい」
「どんな人なのかしら? おじさん、知ってる?」
エレナは尋ねた。本当は、たいして興味はなかったが、本を持ち込んでくれた旅人が、謂れのない謗りを受けるのはいたたまれない。
店主はカウンターに身を乗り出し、声を潜めた。
「知らん。だが、色々と噂は聞いた。その男はまず浴場で湯を浴び、次に床屋で髪を切り髭を剃り、その次に服屋と靴屋で旅装束を新調したそうだ。床屋のおやじによると、来店したときは、見窄らしい風采だったそうだが、散髪と剃髭ですっかり見違えたんだとよ。男前だとはしゃいだカミさんに床屋のおやじが腹を立てて、夫婦喧嘩になっちまったそうだ」
「まぁ……ふふ」
エレナは思わず知らず、笑ってしまう。床屋の夫妻はおしどり夫婦として町中に知られているが、夫が嫉妬深いため、妻がうんざりしてしまい、夫婦喧嘩になることもしばしばだ。
店主は大真面目に、エレナの不躾を窘める。
「笑いごとじゃないぞ。床屋のおやじは本気で参っちまって、俺に相談に来たんだからな」
「そうね……ふふ、ごめんなさい。続けて」
「……その男、行く先々で女たちに声を掛けて回ってるそうだ。しかも見境なしに。仕立屋の女将に、宿屋の婆さん。果てはチビのユーリにまで、愛想を振りまいていたらしい。女あしらいに慣れた、女好きに違いない。お前の店にも顔を出すかもしれん。気をつけろよ」
ユーリはザックの妹で、四歳になったばかりだ。少し前まで、お嫁さんになってあげると言いながら、ダンを追い回していたのに。女あしらいの上手な旅人に優しくされて、心変わりしたのだろうか。
エレナは笑いを噛み殺しながら、過保護な店主に応える。
「はいはい。十分、気をつけます」
店主はエレナの返事がお気に召さなかったらしく、エレナをぎろりと睨む。エレナが首を竦めてみせると、もういいと言って、そっぽを向いてしまう。
これ以上、機嫌を損ねてしまったら、酒場から追い出されてしまうかもしれない。エレナは大人しくグラスを傾けた。ちびちびと酒を飲みつつ、店内を見回す。客はエレナの他には、円卓の漁師たちだけ。早くも出来上がっているらしく、三人のうち一人は円卓に突っ伏して鼾をかいている。店主がのしのしと円卓に向かって行き、泥酔してしまった漁師は、仲間に支えられながら、えっちらおっちらと店を出ていった。
戻ってきた店主は、エレナの背後に立ち、エレナを見下ろす。膨らんだ肩掛けカバンを指差し、質す。
「それ、その本。それも仕入れたのか?」
「ええ、そう」
「それもまた、いかがわしい本だとは言わんだろうな?」
「そうねぇ。もしかしたら、義賊の末路より、いかがわしい本かもしれない」
「寄越せ。暖炉に焚べる」
「冗談だから、やめて。おまじないの本よ」
「おまじない? どんなおまじないだ?」
「面白いのよ」
エレナは鞄から本を取り出すと、革の覆いを外し、革装丁の表紙を店主に見せた。
「まず、この本を最後まで読む。それから、この本を枕元に置き、気になる相手に触れながら、共に眠る。それだけで、相手の夢を覗き見ることが出来るんですって」




