馴染みの酒場、酔うための酒
坂道を下るにつれて、潮の匂いが強くなる。
波止場に辿り着く頃には、水平線の彼方だけが、黄昏の残り火を燃やしていた。港全体が、影絵のようだ。
波止場に繋がれ、寄せては返す波に揺られる数隻の漁船を横目に見ながら、古い桟橋を渡る。その先にあるのは、潮風により磨かれ黒黒とした、木造の建物。出入り口には、潮風と冷気を遮る重い風除け幕が垂れ下がっている。
店先には酒樽が鎮座し、赤いランタンが吊り下げられている。つまり、食堂の営業は終わり、酒場の営業が始まったということだ。
塩分で白く濁った分厚い硝子窓からは、ぬくもりのある山吹色の光が洩れていた。酒場の柱に、古びた手配書が折り重なり、釘打ちされている。その顔ぶれは、エレナがマルタと同い年だった頃から変わらない。
険しい顔つきをした、むくつけき男たちがずらりと並ぶ。賞金首という物騒な肩書にふさわしい面構えだ。そうかと思いきや、瀟洒な老紳士や、溌剌とした若い娘もいる。手配書を見なければ、彼等が凶悪な罪人だとは、誰も夢にも思わないだろう。
千差万別の賞金首たち。中でも一際目を引くのが、片眼鏡の男である。なぜかと言うと、こんな、おかしな顔立ちをした人間がいるなんて、とても信じられないからだ。パンパンに膨れた顔、埋もれて点になった目、耳まで裂けた口は弧を描き、ギザギザの歯を剥き出しにしている。
剽軽でいて、どこか空恐ろしい。初めて見た日の夜は、この男が追いかけてくる悪夢に魘されて飛び起きた。その後、怖くて眠れなくなり、姉に泣きついた。
添い寝して貰った夜を懐かしみながら、風除け幕を押し分け、酒場の扉を押し開ける。
暖炉の火が赤々と燃え盛る店内は暖かく、エレナは肩の力を抜いた。
店内に漂うのは、酒の香気と煙草の燻煙。頑丈な梁から吊り下げられたランタンが店内を橙色に照らしている。点々と並んだ卓は、大切に愛用された家具特有の、なめらかな光沢を帯びていた。
隅の円卓では、仕事を終えた漁師たちが笑い合い、酒を酌み交わしている。見慣れた顔だ。彼等はエレナに気付くと、軽く酒杯を掲げてみせる。エレナは会釈でそれに応えた。
エレナは真っ直ぐ、店の最奥にあるカウンターに向かい、右端の席に腰掛ける。大柄で恰幅のよい店主は、何も言わずに、黄金色の酒を湛えた瓶を開封した。ふわりと、甘い果実の香りが鼻先を掠める。林檎酒だ。
エレナは小さく笑った。
「まだ何も頼んでいないわ」
「どうせ、これを頼むんだろう」
店主は、ころりとした小ぶりなグラスに林檎酒を注ぐと、エレナに差し出した。
「毎年、この日はこれだからな」
エレナは答える代わりに、グラスを受け取った。口をつける前に、襟巻きを外し、上着を脱ぎ、足元に置かれた籠に入れた。エレナがグラスに触れるや否や、店主はぴしゃりと言った。
「二杯までだ」
「去年は三杯だったわ」
「去年は特別だ。……酷い顔をしてたからな」
エレナは思わず吹き出した。
「まぁ、ひどい言われよう」
「事実だろう」
店主は肩をすくめる。
「三杯目を頼んだら追い出す」
「横暴じゃない?」
「気に入らないなら、他の店へ行け」
「いやよ。おじさんのお店で飲む林檎酒が一番、美味しいもの」
店主は目を眇める。満更でもないと、顔に書いてある。それくらい、難なく読み取れる。何せ、長い付き合いだ。
店主は渋面をつくり、わざとらしくため息をついた。
「まったく、言うようになったもんだ。セーラに注いでやった発泡酒の泡をこっそり舐めて、苦いと涙目になってたチビのエレナが」
セーラ。姉の名だ。その懐かしい響きに聞き入り、エレナは目を閉じる。そして、微笑みを深める。
「それは十年以上も前の話ね」
十年前。エレナがいて、姉がいて、母がいて、父がいた。家族が揃っていた。
今はもう、エレナしかいない。
これ以上はいけないと、エレナは自身に待ったをかけた。
感傷に浸るには、まだ、酔い足りない。
エレナは店主を見上げた。店主もエレナを見返した。この店にあるテーブルと同じ、よく磨かれた優しい色の瞳。同じ瞳をもつ少年を連想して、エレナはくすりと笑った。
「十年前といえば、ちょうど、ダンが生まれた頃だわ」
「夏には十一年前になる」
「そうね。正確に言わないと、ダンに叱られちゃう」
「……うちの倅が、生意気言ってすまんな」
「いいのよ。背伸びしたいお年頃だもの。かわいいものだわ」
エレナはグラスを傾け、琥珀色の酒を一口含むと、目を細めた。
「ダンはすっかり大きくなったわね。腕にすっぽりおさまっていたのが、つい昨日のことみたいに思えるのに」
生まれたばかりのダンを抱かせて貰った、あの日の感動を思い出す。「エレナおねえちゃん、だっこ!」と言って足元に纏わりついてきたことも「今日はエレナおねえちゃんと一緒に寝る!」と言い張られ、困らされたことも、つい昨日のことのように思えた。
そんなダンが、最近では、剣術道場に通い始めたそうだ。「エレナを守れる強い男になるから」と宣言されたときは、思わず笑ってしまった。その後、ダンが臍を曲げてしまって、大変だった。
思い出し笑いをするエレナを見て、店主はひょいと片眉を上げた。
「それを言うなら、お前だってそうだ。少し前までは、頭でっかちなちびすけだった。雛鳥みたいにセーラの後をちょこちょこ付いて歩いては、やることなすこと真似したがったもんだ」
「……そうね。姉さんは昔から、私の憧れだから」
エレナは肯き、酒を煽った。まだ、酔いが足りない。
店主は咳払いをし、話の穂を接ぎ替えた。
「背が伸びるだけならいいんだが、口も達者になりやがった」
手元のグラスを布巾で拭き上げつつ、店主はため息をつく。
「生意気盛りってやつさ。家内によると、どうにも、客の話を盗み聞きしているらしくてな」
「昼間はおばさんの食堂のお手伝いをしているものね」
「きりきり働いてると思いきや、要らん知識を仕入れてくる」
「なるほどね。どうりで、最近になって、ぐっと大人びたはずだわ」
「夜の酒場には立ち入らせねぇが、昼間の食堂にも、お喋りな客はいるもんだ」
店主は苦虫を噛み潰したような顔をして、拭き終わったグラスを飾り棚に並べた。
「大人になったんじゃなくて、大人になった『つもり』になってるのさ。家内に叱られても、素直に聞きやしねぇ。ああ言えばこう言う。俺が拳骨で黙らせたが、それでも、涙目で言い返してきやがった。もう子どもじゃないんだ、とな」
「あらあら」
エレナは思わず噴き出した。頑固な父親と、必死に背伸びをする息子のやりとりが目に浮かぶようだ。
「それで、ダンは何をやらかして、そんなに叱られてしまったのかしら?」
「お前を嫁に貰うって、あちこちで触れ回ってる」
「えっ」
目を丸くするエレナを他所に、店主は涼しい顔で続ける。
「この前なんか、お前を巡って、ガキ大将のザックと決闘したんだと。なんでも、勝ったほうがお前を嫁に貰う取り決めをしたとか」
エレナはさっきよりさらに目を丸くした。
「ちょっと待って。ザックまで? あの子『エレナは本の虫だから行き遅れるんだ』って、私のことからかうのよ?」
「悪ガキってのはそんなもんさ。あいつの兄貴だって、そうだっただろう?」
円卓から、酒の催促の声が上がる。店主はそれに応えると、飾り棚から酒瓶を取り出す。酒瓶の栓を抜きながら、続ける。
「それを聞いたうちの倅は、こう言ったそうだ。『エレナは行き遅れじゃない。おれが大きくなるのを待っててくれてるんだ。おれは彼女の婚約者だから』とな。そしたら、ザックが怒って、決闘になったんだと」
エレナがあっけにとられているうちに、店主は円卓に新しい酒を運び、戻って来た。しばらくしてから、エレナは尋ねた。
「ダンに怪我はなかったの?」
「ぼろぼろだった。だが、勝ったそうだ」
「ザックは?」
「似たようなもんだと。勝ったのはうちの倅だが」
「……勝ち負けにこだわらないで」
「こだわるさ。男なら」
「そんな無茶は、二度として欲しくないわ」
エレナは心の底からそう言った。男の子はやんちゃをするものだと言うけれど。それでも、しなくてもいい怪我をして欲しくない。
店主はゆるゆると頭を振った。
「言っても聞くまい。ダンの奴、おまえの婚約者の座を死守するのに必死だ。お前、あいつと婚約してやったんだろう?」
店主の言葉に、エレナは耳を疑った。思わず、聞き返してしまう。
「婚約ですって? ダンと私が?」
婚約者と言うのは、言葉の綾か何かかと思えば、言葉の通りの意味だったと言うのか。店主は当然のように肯いた。
「そうだ。お前は昔、あいつの求婚に、大人になっても気持ちが変わらなかったら、と答えたんだろう? ダンはすっかりその気だぞ」
「そんな……あの子、まだ六歳くらいだったのよ」
「六歳でも、覚えていた。こども相手だからと、安請け合いするもんじゃないな」




