特別な日の店仕舞い
年に一度、この日だけは、夕刻の鐘が鳴ると同時に店を閉めることにしている。
それはエレナの古書店の、大切な決まり事。
エレナは外套を着込み、襟巻を首に巻いて、店を出た。重い木製の扉を引いて閉め、鍵をかけようとした。ちょうどその時だった。
「待って、エレナさん! お願い、閉めないで!」
冷たい石畳を踏み鳴らし、少女が駆け寄って来る。長いおさげ髪を揺らし、息を切らせて。
近所に住む十一歳のマルタだ。胸には昨日、彼女に貸し出した冒険物語を大事そうに抱えている。
エレナのもとにたどり着く頃には、マルタの足取りはすっかり覚束なくなっていた。つんのめるようにして立ち止まったマルタの顔を、エレナは腰を屈めて覗き込む。
「霜が降りた道を走らないで。滑って転んでしまったら大変」
赤くなった鼻の尖りを指先でちょんと突いてから、汗ばんだ額に張り付いた前髪を、ちょいと払ってあげた。肩で息をするマルタが落ち着くのを待ち、尋ねる。
「どうしたの、マルタ? もう夕刻の鐘が鳴ったわよ。お家に帰らないと、ご両親が心配なさるわ」
「それなら大丈夫! 母さんには、すぐ戻るって言ってあるから」
マルタは胸を張り、はきはきと答えた。それから首を竦め、上目遣いにエレナの顔色を窺った。
「お店、もう閉めるんだよね。ごめんなさい。でも、どうしても、続きを読みたくて……。だって、明日は休息日だから! 今日を逃すと、明後日になっちゃう。そんなの嫌、待ちきれないわ!」
「あらあら。それは困ったわね。この町一番の、読書家のお嬢さん」
「そうなの! 困ってるの! だからお願い、助けて、エレナさん!」
マルタはエレナが女神像であるかのように、熱心に祈りを捧げるふりをする。それを見て、エレナはくすくすと忍び笑う。
没頭している物語から途中で放り出されると、上の空になって、何も手につかなくなる。エレナ自身にも覚えがあった。
「いいわ。特別よ」
マルタはぱっと顔を輝かせた。
「わーい! ありがとう、エレナさん!」
「どういたしまして。ただし、次からは鐘の鳴る前にいらっしゃい。暗くなってから、女の子がひとり歩きするのは危ないわ。最近は、日が落ちるのが早くなったし、他所の人も港を出入りしているから」
「はーい!」
エレナが扉を開けると、マルタが隙間を潜り抜け、店内へ入って行く。
「あっ、待って。今、灯りをつけるから」
「大丈夫、平気!」
マルタは暗がりの中、迷いのない足取りで店の奥へ向かう。この店の本をすべて読破すると豪語する小さな常連客は、目を瞑っていても、本棚の間をすいすい進めるのかもしれない。
そうだとしても、危ないことに変わりはない。目当ての本を引っ張り出し、駆け戻ってきたマルタを、エレナは窘めた。
「お店の中でも、走っちゃだめ。危ないわ」
「ごめんなさーい。そんなことより、エレナさん! これ返すから、これ貸して!」
マルタは悪びれない笑顔で、エレナに二冊の本を差し出す。エレナはまったくもうと苦笑しながら、本を受け取った。
鞄を肩に掛け直し、帳場に立つ。帳簿を開き、貸し本の記録をつけてゆく。
マルタが差し出した銅貨を受け取り、貸し出す本を手渡す。返却された本は、休息日明けに本棚に戻すことにした。
エレナが作業を終えて帳場を離れようとすると、マルタが帳場に置かれた本に目を留めていた。エレナを見上げ、小首を傾げる。
「エレナさん、その本はなに? 見たことない本」
本へと伸びたマルタの手を、エレナはやんわりと押し留めた。
「この本はだめ」
「どうして?」
「あなたには、読んでほしくない本なの」
エレナは真剣にそう言った。
それは今朝、旅人が持ち込んだ本だった。
都で流行りの物語らしいが、如何せん、悪趣味だ。エレナ自身、読んでいて気分が悪くなってしまったほどである。古本屋を営んでいなければ、目を通すこともなかっただろう。
マルタはエレナの顔を見て、訳知り顔で頷いた。
「わかった。男の人が喜ぶ本でしょ」
「……それはどうかしら」
エレナは首を横に振る。男が皆、官能小説を好むのかと言うと、必ずしもそうとは限らないだろうし、この本の場合、なおのこと、決めつけられない。これは、単なる官能小説ではないのだから。
根掘り葉掘り聞いたところで、この本の話を引き出せないと察したのだろう。マルタはつまんないの、と頬を膨らませる。それから、ぱっと帳場に身を乗り出したかと思うと、エレナの肩掛け鞄を指差した。
「そっちは? 鞄に入ってる本。それも見たことないわ。立派な装丁ね」
エレナは鞄に目をやる。鞄の口から、革の覆いに包まれた本の背表紙が、僅かに覗いていた。マルタの目敏さに舌を巻きつつ、エレナは平静を装って言った。
み
「これはね、おまじないの本なんですって」
「え? おまじない? どんな?」
興味津々で食いついてきたマルタに、エレナは曖昧な微笑みを向ける。
「ちょっと待って。これはまだ、検めている途中なの。休息日が明けるまで、待ってちょうだい。それまでには読み終えるから」
「休息日が明けたら、読ませてくれる?」
「……検めてみて、良さそうだったらね」
「エレナさんがそう言うときは、だいたい、だめなときよ」
唇を尖らせるマルタの頭をよしよしと撫でて、宥めようとした。ところが、マルタはますます唇を尖らせて「そんなんじゃ、誤魔化されないよ。もう、小さな子どもじゃないんだから」と文句を言う。エレナは苦笑いするしかない。
マルタの言う通り。十一歳はもう、小さな子どもではない。マルタと同い年のダンなんて、頭を撫でようものなら、顔を真っ赤にして怒り出す。
エレナはおまじないの本を鞄に押し込んだ。
この本にある『おまじない』が、よくある子ども騙しなら、マルタに試し読みさせてあげるし、読みたいと言われれば貸し出す。
けれど、このおまじないの本が、本物の『魔術品』であったなら。いたいけな子どもの目に触れさせてはならない。
人と本の一期一会の橋渡しをする者として、あれはだめ、これもだめと決めつけるのは、子ども相手でも気が引けるけれど。
エレナは、おまじないの本からマルタの気を逸らすべく、話題を探した。難航していると、意外にも、マルタ自ら話題を変えてくれた。
「そういえば、エレナさん、知ってる? この前、ダンとザックが空き地で大喧嘩したの」
「そうなの? 何があったのかしら?」
「……エレナさんは知らない方がいいわ」
「あら、残念。教えてもらえないのね」
「教えない。だって、ものすごく身勝手で、ものすごく馬鹿馬鹿しいんだもん。普段は寛容なエレナさんだって、きっと、気分を害するわ」
エレナは微笑む。マルタは同じ年頃の子たちより難しい言葉を好んで使う。日頃の読書の賜物だろう。兎にも角にも、深追いされずに済んで、助かった。
マルタは冒険物語を胸に抱いて、話を続ける。
「この町の男の子って、みんな、幼稚。それにバカ。この本に出てくる、白馬の王子様みたいな、すてきな人がいたら良いのに」
彼女自身、十一歳の子どもであることを忘れてしまったのだろうか。大人ぶった口ぶりでそう言い、やれやれと肩をすくめるマルタを見て、エレナは思わず吹き出してしまった。
「これから、素敵な男の子になるのよ。もう少し待ってあげて」
「エレナさんは大人ねぇ。私たちと、十一歳しか違わないのに」
「それはそうよ。あなた達の倍、生きてるもの」
マルタはふぅんと、鼻を鳴らす。それから、目をらんらんと光らせて、エレナを見つめた。
「ねぇねぇ、エレナさん。この前、ザックのお兄さんに、お茶に誘われたって本当?」
「さぁ、どうだったかしら」
「もう! そうやってはぐらかす!」
エレナが忍び笑うと、マルタは頬を膨らませた。ぶつぶつと呟く。
「……エレナさんは知的で美人でしっかり者で、引く手数多なんだから、子どもなんか、相手にされるわけないのに。男の子って、ほんと、バカなんだから」
おませな言い種がおかしくて、つい、口許が綻んでしまう。
鞄を肩にかけ直し、マルタの背をぽんと叩いた。
「お喋りの続きは、また今度にしましょう。暗くなる前に、帰りなさい」
「はーい! エレナさん、またね!」
扉を開くと、マルタは冒険物語を大切そうに抱え、駆け出した。遠ざかる後ろ姿に、走らないでと声をかける。「はーい!」と元気に返事をしながら、マルタは風のように走り去った。
エレナはマルタを見送ると、店を出て鍵をかけた。
大きな窓から、薄暗い店内が見える。
幼い頃から、この窓から店内を覗いていた。
接客する母がこちらに気付いてくれるのを、今か今かと待ち侘びた。
本を本棚に整然と並べる父の手際を、飽きることなく眺めていた。
両親が亡くなった後は、店番をする姉と手を振り合い、微笑みを交わしていた。
あの日も、こうして窓を覗き込んで、そして。
エレナは視線を窓から引き剥がした。霜の降りた石畳の道を歩み出す。
足元から寒気が這い上がってきて、エレナは思わず身を縮めた。首元から滑り込む冷気から身を守るため、襟巻きを隙間なく巻き付ける。吐息は白く凍え、潮風に掻き消されてゆく。
ふと空を見上げると、沈み行く夕日が、空を塞ぐ叢雲を燃やし、焦がしていた。
日が昇って、日が落ちる。瞬きの合間に、一日が過ぎて行く。時の流れは、エレナを置き去りにする。
「……あれからもう、五年、経ったのね」
エレナはそうひとりごち、波止場へ向かって歩き出した。




