↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/16

特別な日の店仕舞い


年に一度、この日だけは、夕刻の鐘が鳴ると同時に店を閉めることにしている。


 それはエレナの古書店の、大切な決まり事。


 エレナは外套を着込み、襟巻を首に巻いて、店を出た。重い木製の扉を引いて閉め、鍵をかけようとした。ちょうどその時だった。


「待って、エレナさん! お願い、閉めないで!」


 冷たい石畳を踏み鳴らし、少女が駆け寄って来る。長いおさげ髪を揺らし、息を切らせて。

 近所に住む十一歳のマルタだ。胸には昨日、彼女に貸し出した冒険物語を大事そうに抱えている。


 エレナのもとにたどり着く頃には、マルタの足取りはすっかり覚束なくなっていた。つんのめるようにして立ち止まったマルタの顔を、エレナは腰を屈めて覗き込む。


「霜が降りた道を走らないで。滑って転んでしまったら大変」


 赤くなった鼻の尖りを指先でちょんと突いてから、汗ばんだ額に張り付いた前髪を、ちょいと払ってあげた。肩で息をするマルタが落ち着くのを待ち、尋ねる。


「どうしたの、マルタ? もう夕刻の鐘が鳴ったわよ。お家に帰らないと、ご両親が心配なさるわ」


「それなら大丈夫! 母さんには、すぐ戻るって言ってあるから」


 マルタは胸を張り、はきはきと答えた。それから首を竦め、上目遣いにエレナの顔色を窺った。


「お店、もう閉めるんだよね。ごめんなさい。でも、どうしても、続きを読みたくて……。だって、明日は休息日だから! 今日を逃すと、明後日になっちゃう。そんなの嫌、待ちきれないわ!」


「あらあら。それは困ったわね。この町一番の、読書家のお嬢さん」


「そうなの! 困ってるの! だからお願い、助けて、エレナさん!」


 マルタはエレナが女神像であるかのように、熱心に祈りを捧げるふりをする。それを見て、エレナはくすくすと忍び笑う。


 没頭している物語から途中で放り出されると、上の空になって、何も手につかなくなる。エレナ自身にも覚えがあった。


「いいわ。特別よ」


 マルタはぱっと顔を輝かせた。


「わーい! ありがとう、エレナさん!」


「どういたしまして。ただし、次からは鐘の鳴る前にいらっしゃい。暗くなってから、女の子がひとり歩きするのは危ないわ。最近は、日が落ちるのが早くなったし、他所の人も港を出入りしているから」


「はーい!」


 エレナが扉を開けると、マルタが隙間を潜り抜け、店内へ入って行く。


「あっ、待って。今、灯りをつけるから」


「大丈夫、平気!」


 マルタは暗がりの中、迷いのない足取りで店の奥へ向かう。この店の本をすべて読破すると豪語する小さな常連客は、目を瞑っていても、本棚の間をすいすい進めるのかもしれない。


 そうだとしても、危ないことに変わりはない。目当ての本を引っ張り出し、駆け戻ってきたマルタを、エレナは窘めた。


「お店の中でも、走っちゃだめ。危ないわ」


「ごめんなさーい。そんなことより、エレナさん! これ返すから、これ貸して!」


 マルタは悪びれない笑顔で、エレナに二冊の本を差し出す。エレナはまったくもうと苦笑しながら、本を受け取った。


 鞄を肩に掛け直し、帳場に立つ。帳簿を開き、貸し本の記録をつけてゆく。


 マルタが差し出した銅貨を受け取り、貸し出す本を手渡す。返却された本は、休息日明けに本棚に戻すことにした。


 エレナが作業を終えて帳場を離れようとすると、マルタが帳場に置かれた本に目を留めていた。エレナを見上げ、小首を傾げる。


「エレナさん、その本はなに? 見たことない本」


 本へと伸びたマルタの手を、エレナはやんわりと押し留めた。


「この本はだめ」


「どうして?」


「あなたには、読んでほしくない本なの」


 エレナは真剣にそう言った。


 それは今朝、旅人が持ち込んだ本だった。

 都で流行りの物語らしいが、如何せん、悪趣味だ。エレナ自身、読んでいて気分が悪くなってしまったほどである。古本屋を営んでいなければ、目を通すこともなかっただろう。


 マルタはエレナの顔を見て、訳知り顔で頷いた。


「わかった。男の人が喜ぶ本でしょ」


「……それはどうかしら」


 エレナは首を横に振る。男が皆、官能小説を好むのかと言うと、必ずしもそうとは限らないだろうし、この本の場合、なおのこと、決めつけられない。これは、単なる官能小説ではないのだから。


 根掘り葉掘り聞いたところで、この本の話を引き出せないと察したのだろう。マルタはつまんないの、と頬を膨らませる。それから、ぱっと帳場に身を乗り出したかと思うと、エレナの肩掛け鞄を指差した。


「そっちは? 鞄に入ってる本。それも見たことないわ。立派な装丁ね」


 エレナは鞄に目をやる。鞄の口から、革の覆いに包まれた本の背表紙が、僅かに覗いていた。マルタの目敏さに舌を巻きつつ、エレナは平静を装って言った。

 

み

「これはね、おまじないの本なんですって」


「え? おまじない? どんな?」


 興味津々で食いついてきたマルタに、エレナは曖昧な微笑みを向ける。


「ちょっと待って。これはまだ、検めている途中なの。休息日が明けるまで、待ってちょうだい。それまでには読み終えるから」


「休息日が明けたら、読ませてくれる?」


「……検めてみて、良さそうだったらね」


「エレナさんがそう言うときは、だいたい、だめなときよ」


 唇を尖らせるマルタの頭をよしよしと撫でて、宥めようとした。ところが、マルタはますます唇を尖らせて「そんなんじゃ、誤魔化されないよ。もう、小さな子どもじゃないんだから」と文句を言う。エレナは苦笑いするしかない。


 マルタの言う通り。十一歳はもう、小さな子どもではない。マルタと同い年のダンなんて、頭を撫でようものなら、顔を真っ赤にして怒り出す。


 エレナはおまじないの本を鞄に押し込んだ。


 この本にある『おまじない』が、よくある子ども騙しなら、マルタに試し読みさせてあげるし、読みたいと言われれば貸し出す。

 けれど、このおまじないの本が、本物の『魔術品』であったなら。いたいけな子どもの目に触れさせてはならない。


 人と本の一期一会の橋渡しをする者として、あれはだめ、これもだめと決めつけるのは、子ども相手でも気が引けるけれど。


 エレナは、おまじないの本からマルタの気を逸らすべく、話題を探した。難航していると、意外にも、マルタ自ら話題を変えてくれた。


「そういえば、エレナさん、知ってる? この前、ダンとザックが空き地で大喧嘩したの」


「そうなの? 何があったのかしら?」


「……エレナさんは知らない方がいいわ」


「あら、残念。教えてもらえないのね」


「教えない。だって、ものすごく身勝手で、ものすごく馬鹿馬鹿しいんだもん。普段は寛容なエレナさんだって、きっと、気分を害するわ」


 エレナは微笑む。マルタは同じ年頃の子たちより難しい言葉を好んで使う。日頃の読書の賜物だろう。兎にも角にも、深追いされずに済んで、助かった。


 マルタは冒険物語を胸に抱いて、話を続ける。


「この町の男の子って、みんな、幼稚。それにバカ。この本に出てくる、白馬の王子様みたいな、すてきな人がいたら良いのに」


 彼女自身、十一歳の子どもであることを忘れてしまったのだろうか。大人ぶった口ぶりでそう言い、やれやれと肩をすくめるマルタを見て、エレナは思わず吹き出してしまった。


「これから、素敵な男の子になるのよ。もう少し待ってあげて」


「エレナさんは大人ねぇ。私たちと、十一歳しか違わないのに」


「それはそうよ。あなた達の倍、生きてるもの」


 マルタはふぅんと、鼻を鳴らす。それから、目をらんらんと光らせて、エレナを見つめた。


「ねぇねぇ、エレナさん。この前、ザックのお兄さんに、お茶に誘われたって本当?」


「さぁ、どうだったかしら」


「もう! そうやってはぐらかす!」


 エレナが忍び笑うと、マルタは頬を膨らませた。ぶつぶつと呟く。


「……エレナさんは知的で美人でしっかり者で、引く手数多なんだから、子どもなんか、相手にされるわけないのに。男の子って、ほんと、バカなんだから」


 おませな言い種がおかしくて、つい、口許が綻んでしまう。


 鞄を肩にかけ直し、マルタの背をぽんと叩いた。


「お喋りの続きは、また今度にしましょう。暗くなる前に、帰りなさい」


「はーい! エレナさん、またね!」


 扉を開くと、マルタは冒険物語を大切そうに抱え、駆け出した。遠ざかる後ろ姿に、走らないでと声をかける。「はーい!」と元気に返事をしながら、マルタは風のように走り去った。


 エレナはマルタを見送ると、店を出て鍵をかけた。


 大きな窓から、薄暗い店内が見える。


 幼い頃から、この窓から店内を覗いていた。

 接客する母がこちらに気付いてくれるのを、今か今かと待ち侘びた。

 本を本棚に整然と並べる父の手際を、飽きることなく眺めていた。


 両親が亡くなった後は、店番をする姉と手を振り合い、微笑みを交わしていた。


 あの日も、こうして窓を覗き込んで、そして。


 エレナは視線を窓から引き剥がした。霜の降りた石畳の道を歩み出す。


 足元から寒気が這い上がってきて、エレナは思わず身を縮めた。首元から滑り込む冷気から身を守るため、襟巻きを隙間なく巻き付ける。吐息は白く凍え、潮風に掻き消されてゆく。


 ふと空を見上げると、沈み行く夕日が、空を塞ぐ叢雲を燃やし、焦がしていた。


 日が昇って、日が落ちる。瞬きの合間に、一日が過ぎて行く。時の流れは、エレナを置き去りにする。


「……あれからもう、五年、経ったのね」


 エレナはそうひとりごち、波止場へ向かって歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。