共に過ごす夜 一
部屋の中央にあるテーブルの上には、一本の蝋燭が立てられた燭台が置かれている。男は手燭の火を燭台の蝋燭に移した。そして、手燭をテーブルに置いた。
エレナから二人分の外套を受け取ると、掛け釘にかける。そばにある椅子を引き、エレナに着席を勧めた。エレナが腰を下ろすのを見届けた男は、莞爾と微笑んだ。
「さて。まず湯を貰って来ようか。君はここで待っていてくれ」
男は手燭を手に取り、部屋の隅にある扉を開けた。扉を潜り、そこに手燭を置くと、部屋を出ていった。
扉が閉まる。取り残されたエレナは、所在なく視線を巡らせた。宿屋の外観は見慣れていたが、部屋に通されたのは初めてのことだ。
宿の部屋は簡素な造りだった。必要最低限の調度品が置かれているだけで、飾り気はない。窓辺に設えた寝台が、やけに目についた。
やがて男は、湯をたっぷりとたたえた盥を抱えて戻ってきた。杖は腰に締めた革帯に挟んでいる。部屋の隅にある扉を開け、その向こうに盥を置く。それからエレナの傍に戻り、乾いた布を差し出した。
「では、お先にどうぞ。その扉の向こう側が洗い場だよ」
エレナはそちらに目を向け、それから男を見上げた。
これから、二人で為すことを思えば、身を清めるのは当然のこと。何を躊躇うことがあるだろう。
この謎めく旅人と、一夜を共に過ごす。そう決めたのはエレナ自身だ。誘われたからといって、ただ流されたわけではない。それなのに、乾いた布を受け取る、それだけのことを逡巡してしまう。いざ二人きりになると、勝手が分からない。なにせ、男性とこうなったのは、初めてのことなのだ。
しばらくすると、男は乾いた布を引っ込めた。エレナの前で膝をつき、俯くエレナの顔を覗き込む。男は優しく微笑んだ。
「……もし、君が今、気が変わったから帰ると言っても、私は怒らないよ。もちろん、残念には思うがね。美しく聡明で、思い遣りのある女性と出会い、楽しく会話して、お酒をご馳走になった。それだけでも、信じ難い幸運だ。これ以上を望めば、罰が当たるだろう」
そう嘯いて、男は片目を瞑ってみせた。土壇場で、エレナが怖気付いたと思ったのだろう。
男の配慮に感謝しつつも、腹の底では反抗心が頭を擡げる。生来、人一倍、負けん気が強いのだ。
エレナは立ち上がり、男の手から乾いた布を奪い取った。
跪いたまま、エレナを見上げる男を見下ろす。
「お生憎様。年端もいかない少女になさるような御心遣いは無用です。私は大人ですから」
エレナは啖呵を切ると、洗い場へ駆け込んだ。男の忍び笑いが、扉の隙間から滑り込んでくる。エレナは扉の取手を強く引いて、それを閉め出した。
エレナは湯を使い、身を清めると、衣服を元通りに身に付けた。長居することなく、洗い場を後にするつもりだった。
愚図愚図していると、また、躊躇いに捕らわれてしまいそうな気がした。そうしたら、男は愚図る幼子をあやすようにして、エレナをそのまま家に帰してしまうだろう。それはあまりにも残念だし、癪だった。
洗い場を出ると、男は椅子に腰掛けていた。寛ぐ姿は優雅だった。どうせ脱ぐことになる衣服をしっかりと着込んだエレナとは、雲泥の差である。
男は立ち上がる。洗い場の扉を背に立ち尽くすエレナのもとへ、歩み寄って来る。エレナのすぐ前で立ち止まり、エレナの髪にそっと触れる。
「髪が少し、濡れているね。綺麗な髪だ。だが、風邪を引くといけない。乾かすのを手伝おうか」
「遠慮するわ。それより、あなたもお湯を使って頂戴」
つけつけと言ってしまってから、エレナは後悔した。今のエレナには余裕がない。それはエレナの都合だ。しかも、男はそれを汲み取り、配慮してくれている。それなのに、エレナのこの態度はどうしたことか。あまりにも無礼ではないか。
エレナは男から目を背け、唇をきゅっと噛んだ。エレナが混乱を鎮め、言葉を探しだすまで、男は辛抱強く待ってくれていた。
男の寛容さに胸を締め付けられながら、エレナは言った。
「お待たせして、ごめんなさい」
「謝らないでくれ。待つのも楽しみの内さ」
男はさらりと言った。息をするように女が喜びそうなことを言う。エレナは返事の代わりに小さく息をついた。
男はエレナの肩を抱き、扉の前から寝台へとエレナを誘導した。エレナを寝台に腰掛けさせると、身を屈め、エレナの旋毛に口付ける。
羞恥に目を泳がせるエレナに、男は微笑みかけた。
「私が戻るまで、待っていてくれるね?」
エレナが肯くと、男は目を細めた。洗い場へ向かい、扉の向こうへ消えた。
耳を澄ませると、かすかな水音がする。この音が止んだとき、エレナは男をその身に受け容れることになる。
エレナの意識を迷いがするすると上ってきた。
本当に、これで良いのだろうか。
弱気になる自分自身を、エレナは叱咤した。
これは、エレナ自身が望んだことだ。このまま、あの男と別れて、後悔したくなかった。この夜を、男と共に過ごすために、エレナは処女を捧げる決心をしたのだ。
やがて水音が止み、しばらくして男が洗い場から戻って来た。こつこつと、杖の石突が床を叩く。
エレナは男の姿を見て、咄嗟に顔を背けた。男はズボンこそ履いているものの、シャツは羽織っただけで、胸から腹にかけてが露わになっている。痩せ細っていると思っていたが、逞しく隆起した胸板を見る限り、そうでもないのかもしれない。
男が含み笑う。失笑だったのかもしれない。だとしても、エレナには返す言葉がなかった。我ながら、初心な小娘そのものだ。これでは、先が思いやられると、呆れられても仕方がない。
やはり、帰りなさい。君にはまだ、早かったようだ。
そう、言われてしまったら、どう食い下がれば良いのだろうか。
名案が思い浮かばないまま、男はテーブルの傍らで立ち止まる。男が何か言う前に「いやよ、帰らない」と断言してしまおう。臍を決めたエレナは昂然と顔を上げる。
男は微笑んでいた。片眼鏡を外し、テーブルの上に置く。レンズを通さない瞳は、左のそれより淡い色をしていた。
「待たせたね」
「……いえ」
「灯りを落としても?」
「……どうぞ」
男は燭台を手に取り、蝋燭の火を吹き消した。灯りが落ちると、現実が遠のいたように感じられた。
エレナはカーテンをほんの少し捲り、窓の外を覗き見た。夜闇に沈んだ町は眠りについたようだ。
酒場で店主と他愛のない会話をしたことも、無頼漢たちに脅かされたことも、男に窮地を救われたことも。思い返せば、物語のなかの出来事のようだ。
男と出会い、言葉を交わし、彼の誘いを受けた。考えてみれば、ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。
迷いはある。躊躇いもある。しかし、後悔はなかった。
男は寝台の枕許に杖を立てかけると、エレナの隣に腰掛けた。寝台がぎしりと軋み、エレナの肩が跳ねる。その肩を男がそっと抱き寄せた。壊れ物に触れるような手つきだ。手弱女でも容易に振り払える力加減。
エレナは長く細く息を吐いた。意識して肩から力を抜く。そして、ぽつりと呟いた。
「……不思議ね」
「何が?」
「あなたと私が、ここでこうしていることが」
「思わぬ出来事も起こるさ。だからこそ、人生は面白い」
そう言って、男は軽やかに笑った。
息遣いを感じられる程、すぐそばにある温顔を見つめながら、エレナは男の言葉の真偽をはかっていた。
朗らかな語り口と笑顔。息をするように女を口説く軽薄さ。ふとした瞬間に覗く、憔悴。
彼の言葉を額面どおりに受け取るには、気にかかることが多すぎた。
それでも今は、問いただす気にはなれなかった。まずは、彼と過ごす時間を楽しみたかった。




