↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/17

一夜の恋

 エレナは身を縮こめ、項垂れた。どうしたものか、どうするべきか。思考はぐるぐると回り、答えは出ない。そうしていると、店主がいつになく低い声を出した。


「おい、旦那」


 エレナはおずおずと頭を擡げた。店主は真剣な眼差しを男に向けている。男は小鳥のように小首を傾げた。


「ん?」


 無邪気を装うには、年齢にも言動にも無理がある。見苦しくならないのは、容姿が整っている以上に、愛嬌があるからだろうか。


 その愛嬌は店主には通用しないらしい。店主の渋面を見ればわかる。男は店主をちらりと見てから、エレナの方へ上体を傾けた。店主から唇の動きを隠すように左手を口もとに添えて


「なにか、物凄く、嫌そうな顔をされてしまった」


 と、少しも声を落とさずに言った。目笑し、店主を流し見る男に、店主はぶっきらぼうに問いかけた。


「あんた、年はいくつだい」


 男が眉を跳ね上げる。エレナに目配せをして、問いかけてきた。


「さて。いくつに見える?」


 エレナは戸惑いながらも、答えた。


「ええと……三十代半ばくらい、とか?」


 エレナの見立てでは三十代後半といったところだが、それより少し若く見えると伝えてみる。


 男は腹を満たした猫のように目を細め、肯いた。どうやら、エレナの答えがお気に召したらしい。


「だそうだ」


 男がそう言うと、店主は露骨に嫌そうな顔をした。そのままエレナへ視線を移し、言った。


「エレナ。俺は今年で四十四になる。お前のお袋さんと同じ年の生まれだ。お前は今年で二十二になるな」


 店主の言葉の意図を察したエレナは、困惑しつつ肯いた。店主はエレナと男の年齢差を気にしているようだ。こんなことなら、少々無理があっても、二十代後半と答えればよかったのかもしれない。


 男は、腰を浮かせかけたエレナの傍らに立ち、肩を揺らした。


「生憎だが、答えられないな。私の身の上には値札がついているのでね」


 項に左手を当てると、冗談めかしてそう言った。


 値札とは、懸賞金のことだろうか。男の腕前、そして無頼漢の頭目の態度を加味すれば、あり得ない話ではなかった。


 しかし、賞金首と言われても、いまひとつピンと来なかった。平和な港町で生まれ育ったエレナは、賞金首と鉢合わせしたことなどない。エレナにとって賞金首とは、この店の柱に貼られた古い手配書に描かれた、遠い世界の人々だ。物語で語られる悪役と同じ。きっと恐ろしい人なのだろうという、漠然とした印象しかない。


 男の発言は、本気なのか冗談なのか、判然としない。


 いずれにしても構わないと、エレナは思った。今更、エレナの決意は揺るがない。


 男がおちゃらけて見せても、店主はくすりともしない。憮然として、男の一挙手一投足を凝視している。


「歳を聞いている」


 男は杖を床に突くと、にっこりと微笑んだ。


「それも含めてだ」


「……その答えで十分だ」


 店主は大きくため息をついた。カウンターテーブルに両手をつき、男を正面から見据える。


「余計なお世話だろうが、言わせてもらう。俺は、その娘が生まれたときから、その娘を知ってる。ご両親も、姉さんも知ってる」


 改めてそう言われると、なおさら決まりが悪かった。家族ぐるみで付き合い、成長を見守ってくれた人の前で、よく知りもしない男にほいほいとついていこうとしている。


 エレナは恥じ入り、ますます小さくなった。そそくさと外套の釦をしめていると、店主は続けた。


「苦労してきた娘なんだ。それでも、泣いてるところなんざ、人前で見せたこともない」


 エレナは顔を上げた。男を見据える店主は、これまで見たどの瞬間よりも真剣な目をしていた。


「だからな。泣かせるんじゃないぞ」


 エレナは言葉を失った。それから、目頭がじんと熱くなった。


 エレナは天涯孤独の身の上だ。しかし、孤独ではなかった。店主のような優しい隣人たちが、エレナを見守り、支えてくれるから。


 男の顔から悪戯な色が消える。店主を見返したのも束の間のこと。しおらしく目を伏せた。


「それは、私も望まない」


 店主は顎を引くと、エレナに視線を移した。


「エレナ、あまり夜更かしするなよ」


「もう子供じゃないわ」


 エレナがいつもの調子で言い返すと、店主は目尻を下げ、口角を上げた。幼いエレナによく見せていた表情だ。「やれやれ、仕方のないやつだ」という呆れと諦めと、それらを包み込む愛情が込められた表情だった。


 店主は咳払いをひとつして、男に向き直る。


「旦那、あんたもだ」


「私まで叱られるのか。そんなに若く見えるかね?」


 男は肩をすくめ、笑い飛ばそうとしたが、店主は大真面目に頭を振った。


「若いかどうかは知らんが、すごい隈だ。まともに寝てないんじゃないか?」


 エレナは男の顔を覗き込んだ。言われてみれば確かにその通りで、彼の双眸は、色濃い疲労の影に縁取られているのだった。


 エレナは男の甘い誘いに釣り込まれ、そのことをすっかり失念していた。見れば見るほど、行きずりの女と一夜を共にしている場合ではなさそうだ。


「気が利かなくて、ごめんなさい。無理をしているのなら……」


「ちょっと待っていて。……店主」


 男はエレナの言葉をやんわりと遮ると、店主に向けてニヤリと笑ってみせた。


「人の恋路を邪魔する輩は、馬に蹴られるそうだ」


「何が恋路だ」


 エレナは恋路という言葉にどきりとしたが、店主が呆れ顔で言い捨てたことで我に返った。男の言う恋は一夜限りのものだと、改めて己に言い聞かせる。


 男はからからと笑うと、エレナへ温かな視線を向けた。


「ご心配には及ばない。眠るのはいつだってできるからね。……だが、君と過ごせる夜は、今夜しかない」


 まっすぐな眼差しと言葉に、エレナの胸が強く波打った。


 男に誘われるままに酒場を出た。夜は更け、冷え込んでいた。夜の海を渡った風が肌を刺し、エレナは一瞬だけ首をすくめる。


 その小さな動きを男は見逃さない。何も言わず、己の着ている真新しい外套を脱ぎ、彼女の肩に優しく掛けた。


 エレナは驚いて男を見上げた。男は涼しい顔をしている。それなりに着込んでいるようだが、外套がなければ寒々しい。古ぼけた山吹色の襟巻きが夜風にはためいている。


 エレナは慌てて外套を返そうとするも、男に制止された。


「そのまま。夜風は侮れない」


「だめよ。あなたが風邪を引いてしまうわ」


「ご心配なく。この身の丈夫さは、私の数少ない取り柄のひとつなんだ」


 男は軽やかに笑う。


「真冬の海に落とされても、自力で岸に這い上がって、夜通し走り続けたこともある」


 痩せ我慢に違いないのだが、男は冬の海辺の寒さを、まるで感じさせない。だから、エレナはつい、嘘か真か判然としない男の話に乗ってしまう。


「……よく無事だったわね」


「すごいだろう? まぁ、あんな目に遭うのは、二度とごめんだがね」


 風が強く吹き付け、男の笑みは微笑みに変わる。首に巻かれた山吹色の襟巻きにそっと頬を寄せ、目を細めた。


「それに……これさえあれば、暖かいんだ」


 襟巻きは解れ、擦り切れ、まともに防寒の役目を果たしているとは思えない。それでも、男がその襟巻きによって暖を取っているのは、嘘偽りではないのだろう。男の身体ではなく、心をあたためているのかもしれない。


 エレナは男を自宅に招くつもりだったが、男は謝意を示したものの、エレナの誘いを丁重に断った。エレナの世間体に配慮してくれたのだろうと想像に難くないが、一抹の寂しさは拭いきれなかった。


 男はエレナに自分の外套をしっかりと着せ、フードをすっぽりと被らせた。


 男があらかじめ部屋を取っていた、町外れの宿屋に到着すると、エレナに耳打ちした。


「フードを目深に被って、俯いて。袖から手も出さないで。女性は案外、手で人を見分けたりするものだからね」


この町で暮らすエレナには、男の意図がすぐにわかった。顔を隠したところで、町の人間に気づかれないとは限らない。余計な噂を立てられないように、気遣ってくれているのだ。


 男はエレナの肩を抱き、宿屋の扉を開いた。


 夜番を兼ねて帳場に座っていた女将が、眠たげに顔を上げた。女を連れて戻った旅人を見ても、余計な詮索もせず、部屋の鍵と、蝋燭に火を灯した手燭を渡してくれた。


 軋む階段を上がり、部屋の扉を開ける。


 部屋の中は、しんと静まり返っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。