共鳴
エレナは驚かなかった。むしろ、すとんと腑に落ちた。
エレナが顎を引くと、男は口角を上げた。エレナに向けられていた視線が、逸らされた。ここではないどこか遠くを見つめ、男は言った。
「あいつとは、こどもの頃からつるんで、二人でバカをやってきた。二十三年、一緒だった。これからもずっと一緒だと、信じて疑わなかった」
男は顔を傾け、グラスに残るラム酒を見下ろす。グラスを握る手に力がこもり、縦筋の目立つ爪が白くなる。みるみるうちに口角が下がる。口唇を震わせたのは、血を吐くような悔恨だった。
「ところが、あいつは苦しみ抜いて、死んだ。……私が、殺したも同然だ」
男の告白の重さに、エレナは息を詰めることしかできなかった。
沈痛な沈黙が横たわり、二人を隔てる。不用意に触れられず、エレナは途方に暮れた。
やがて、男は吐息を漏らした。右手に杖を持ち替え、左手で頬杖をついた。エレナに顔を向ける。瞼を伏せると、長い睫が落とす影が、双眸を縁取る色濃い隈を、くっきりと浮かび上がらせる。
「あいつはね、とんでもないお喋りなんだ。息継ぎもせずにべらべら喋り倒す。やっと静かになると思ったんだがな。奴め、どういうわけか、死んでからの方がやかましいんだ」
男は自分の額を指先で小突いた。
「この頭の中に我が物顔で居座って、四六時中、大騒ぎときた。あの図々しさはもはや病気だとわかってはいたが、よもや、死んでも治らんとは」
不謹慎な戯言だ。しかし、咎める気になれなかった。男が空元気を出しているのは明白だった。
「生きていようが死んでいようが、私にべったりなんだ。流石に付き合いきれん」
男はやれやれと頭を振り、俯き加減に笑った。突き放し、扱き下ろす物言いとは裏腹に、笑顔には隠しきれない愛惜が滲んでいた。
「だから、今夜は酒を飲んで、奴を黙らせてやろうと思っていたのさ。ぐっすり眠らせなければ、夢にまで出しゃばってくるのでね」
そう言い、喉を鳴らして笑う。襟巻きを引き上げると、少し顔を傾げる。襟巻きに頬ずりをするような仕種だ。そのまま、沈黙した。
語るのはここまでと決めているようだった。いや、もしかしたら、語り過ぎたと思っているのかもしれない。
エレナはグラスを両手でぎゅっと握りしめた。
男の相棒は亡くなった。それも、苦しみ抜いて亡くなったらしい。そのことで、男は自責の念に駆られている。
エレナも、姉の死について、自分を責めたことがある。エレナが姉に甘え、頼りきりだったから、姉に負担をかけて、死期を早めてしまったのではないか。そうして、自分を責めた。
しかし、男の自責の念は、エレナのそれとは違うだろう。きっと、もっと痛切なのだ。そうでなければ、「私が殺したも同然だ」などという言葉は出てこない。
男と相棒の身に、一体、何があったのか。気になったけれど、エレナはそれ以上、考えるのをやめた。詮索が過ぎれば、男の傷を抉ることになるし、男は答えないだろう。
男は彼の抱える喪失を打ち明けてくれた。彼を苛む喪失の、ほんの一片に過ぎないのだろうけれど、それで十分だ。
エレナは姉を、男は相棒を。それぞれ、かけがえのない存在を亡くした。それがわかれば、もう、十分なのだ。
その共通点があるからこそ、男の喪失を、言葉ではなく心で理解したかった。
だから、エレナは心からの感謝を伝えることにした。
「……ありがとう。話してくださって」
「礼を言うのは私の方だ。君は聞き上手だね」
男は目元を緩め、手にしたグラスに視線を落とした。ラム酒を一口飲んでから、再びエレナに目を向ける。若草色の眼差しは、やはり優しい。
「酒の力を借りるのは、確かに手っ取り早い。だが、君のような、魅力的な女性にはお勧めしないかな」
「どうして?」
「酔った女性を獲物として捉える不届き者が、いないとも限らない。嘆かわしいことに」
エレナはむず痒さに首をすくめた。その評価は、エレナを女として買い被っている。そう言い返そうとした。けれど、すんでのところで思いとどまった。
ついさっき、エレナ自身が危ない目に遭い、この男に救われたばかりだ。
自分の浅はかさを恥じ、エレナは悄然と俯いた。
「魅力的かどうかはわからないけれど……それでも、そうね。危ない目にあったことは間違いないわ。これからは気をつけます」
そろりと男の顔色をうかがうと、男は困ったように眉を下げていた。首を横に振り、言った。
「すまない。説教をするつもりはなかったんだ。悪いのは、女性の都合も考えずに欲をかく男どもだからね。ただ、君のような女性が、嫌な思いをするのは気分が良くない」
「……ありがとう」
エレナが素直に礼を言うと、男は愁眉を開いた。
「礼を言われるようなことではないさ」
片眼鏡の男は優雅な所作でグラスを傾けた。干し無花果を口に運び、ゆっくりと咀嚼、嚥下する。それから、くすりと含み笑った。
「それに、私としては君がほろ酔いでいてくれたことは僥倖だった」
「どうして?」
「素面だったら、素性の知れない男を、隣に座らせたりしないだろう?」
「そうかしら? ……そうかも」
「そうだろうとも。だから、そのままの君でいてくれ」
二人の間に、和やかな笑いが起こった。
男はグラスの縁を指でなぞり、しんみりとした口調で言った。
「酒は万能だ。喪失も後悔も、酔っ払ってしまえば、まるで一睡の夢のよう」
「ええ、そうね。頼り過ぎは、良くないんでしょうけれど」
エレナは男を見つめた。少し迷ったが、言うことにした。
「増してや、それは私だけではなくて、あなたにも言えることじゃないかしら?」
「ご尤も。何事にも、限度というものがある」
男は手元のグラスを軽く回した。残った酒を飲み干すと、グラスをカウンターテーブルに置く。
「私には、酒が最適だった。手軽に、手っ取り早く、現実から逃げられる。今夜もそうするつもりだった……ついさっきまではね。君と話しているうちに、気が変わった。と言うより、考えを改めたと言うべきか」
男は正面を向いた。片眼鏡の奥から、エレナを流し見る。
「君と話していると、あの暴れん坊が、借りてきた猫のように大人しくなるんだ。あいつが亡くなって以来、初めてのことだよ。長年の躾の賜物かな。美女との逢瀬の邪魔だけはするなと、口が酸っぱくなるくらい、言い聞かせていたからね」
或いは、と前置きして、男は目を細めた。また、遠い目をしていた。
「私が久々に、心から笑ってるから、柄にもなく遠慮したのかもしれないな。あいつめ、生きている間は、こちらの都合などお構いなしだった癖に」
男は可笑しそうに肩をすくめた。お世辞かもしれない。それでも、エレナは嬉しかった。
「……そう。私でも、少しはお役に立てたのかしら」
「君だからこそ、だ」
まっすぐな言葉に、胸の奥が不意に熱くなる。エレナは手元のグラスを愛おしそうに見つめ、小さな声で言葉を紡いだ。
「それは良かった。私も、お酒より……こうしてあなたと話している方が、気が紛れるわ」
男は空になった皿を指先で軽く弾き、微かに目元を緩めた。
「では……場所を変えて、このまま二人で夜を明かすのはどうだろう」
エレナは目を瞠った。
男の言葉に含まれた意図を読み取れないほど、エレナは無知ではない。けれど、平然と受け流せるほど、世慣れしているわけでもなかった。
頬がかっと熱をもつのを自覚する。
男性から好意や関心を向けられたことがないわけではない。けれど、それらはどれも、婉曲的で慎ましいものだった。エレナがやんわりと牽制すれば、それ以上踏み込んでくる者はいなかった。
このような色めいた誘いをかけられたのは、生まれて初めてのことだった。
世の中には、様々な生き方がある。魅力的な異性と一夜限りの情を交わすことを否定するつもりはない。
けれど、エレナ自身はそうした火遊びとは無縁に生きてきた。こういう結びつきは、互いを深く慈しみ合う夫婦の営みとして行われるべきだと考えていたし、亡き姉もそう教えてくれた。
出会ったばかりの男。それも、おそらく一処に留まることのない旅人と夜を共にするなど、本来のエレナなら考えられないことだった。
けれど、ここで彼の手を振り払ってしまえば、この男とエレナの人生が交わることは、二度とない。
彼が抱える孤独と痛みに、もう少しだけ寄り添っていたい。ただの行きずりの男女としてではなく、悲しみを分け合う者として、彼の隣にいたい。
胸の鼓動の高鳴りを抑え、エレナは男を見つめ返した。
「……そうね。その方が、良いのかもしれない。そうしましょうか」
エレナが応えると、男はエレナをまじまじと見つめた。はらりと額に落ちかかった、一房の髪を耳にかける。その仕種で、二人を取り巻く空気が変わった。
「是非」
囁く声は甘やかだ。この男は明らかに遊び慣れているのだと、肌でひしひしと感じる。行きずりの関係を結ぶのも、慣れたものなのだろう。
エレナが誘いに応じたことで、エレナもまた、遊び慣れた女だと思っただろうか。火遊びはおろか、異性と交際したこともない初心な小娘だと知られたら、腰が引けるだろうか。幻滅するだろうか。逃げて行ってしまうだろうか。
そうなったら、逃さないように捕まえてしまおうと、エレナは心に決めた。ここまで来たら、エレナだって、後には退けない。
男は音もなく席を立つ。腰を屈めて、エレナの耳許に唇を寄せ、囁きかけた。
「では、行こうか」
エレナは飛び上がりそうになるのを辛うじて堪え、どうにか平静を装った。
「……おじさん。お勘定、お願い」
エレナは外套を羽織りながら、店主に声をかける。店主と目が合い、はっとした。これまでの男とのやりとりは、すべて、店主に筒抜けだった。エレナは耳まで真っ赤になったことを自覚した。
店主がすぐそこにいることを、完全に失念していた。店主の前で、こんなはしたない真似をしてしまうなんて、信じられない。合わせる顔がない。




