あなたを知りたい
エレナはグラスを軽く揺らした。林檎酒がゆるやかに波打つ様を見つめる。
「両親が遺してくれた店を、たった一人で切り盛りして私を育ててくれた姉さん。寝る間も惜しんで働いて、ずっと働き詰めで……それでも、私を大切にしてくれた。本当に優しい姉さんだった」
父はエレナが十二歳になった冬に亡くなった。母は翌年、父の後を追うようにして逝った。
両親を早くに亡くしたことは辛く、悲しかった。両親が恋しくてたまらなかった。それでも姉がいてくれた。姉はいつだってエレナを支えてくれた。姉がいたからこそ、エレナは失意の底から立ち直ることができたのだ。
「そんな姉さんが、五年前に亡くなったの。私達のお店で、何の前触れもなく倒れて……そのまま、二度と目を覚まさなかった」
あの日、帰宅を知らせようと大窓から店内を覗き込んだ。いつもなら、帳場で店番をする姉がエレナに気づき、笑顔で手を振ってくれるはずだった。けれど、そうはならなかった。斜陽によって朱銀に染まる帳場で、姉は冷たく倒れ伏していたのだ。
あの日の夕暮れの景色を、忘れることなどできるはずもなかった。
「姉さんが亡くなってから、しばらくは泣いて暮らしていたわ。泣いて泣いて、涙が枯れ果てるまで泣いて……そして、やっと立ち直った。そのつもりだった。でも、この日になると、どうしても思い出してしまう。姉さんはもういない。私の家族はもう、どこにも誰もいないんだって」
「……素敵なお姉さんだったんだな」
片眼鏡の男は言った。思いやりに満ちた、温かな言葉だった。しかし、エレナはそれでは満足しなかった。単なる慰めが欲しくて踏み込んだわけではない。もう一歩、彼の深い部分へ踏み込まなければならない。
「ごめんなさい。私、いま嘘をついたわ」
「ほう?」
「本当は、立ち直ってなんかいないの。立ち直ったふりをしているだけ。そうしないと生きていけないから。……私、姉さんの死から目を逸らしているだけなのよ」
エレナは言った。その告白は、生々しく血を溢れさせる傷口をみずから抉るような苦痛を伴った。けれど、エレナはやめなかった。踏み込むと決めたのは、エレナ自身なのだから。
「五年よ。もう五年も経ったの。それなのに、立ち直るどころか受け入れることさえできていない。忘れられないとか、思い出したくないとか、それ以前の問題よ。認めたくないの。もう、姉さんがどこにもいないなんて。情けないわ。私がちゃんと立ち直って前を向かないと……姉さんだって安心できないでしょうに」
エレナは長く息を吐き出した。すっかり打ち明けてしまった。これまで誰にも吐露したことのなかった、胸の一番深い場所にある痛みを。これでもう、引き返すことはできない。
横顔に、男の強い視線を感じる。彼を見つめ返すと、男と正面から目が合った。男から笑みが消えている。その瞳には、やはり生気のような光がない。それでも、エレナとどこまでも真摯に向き合おうとしてくれていることだけは痛いほど伝わってきた。
「お姉さんが君を大切にしてくれたように、君もお姉さんを大切にしていたんだな」
「……ええ」
「その想いは、何年経っても色褪せない。だからこそ、悲しみも消えない。……それは、悪いことかな?」
「……え?」
「君は、お姉さんを忘れてしまいたいのか?」
「まさか」
エレナは即答した。
姉を忘れたいはずがない。エレナは姉を愛している。だからこそ、その喪失がこんなにも苦しいのだ。
「だろうね」
男はすんなりと肯いた。この男は、エレナの答えをあらかじめ知っていたのだ。その上であえて自らの口から答えさせた。
「なら、悲しいのも寂しいのも、仕方がないさ」
男はそう静かに結論付けた。
エレナは心の中で、彼の言葉を何度も反芻した。
姉はエレナにとって大切な人だった。愛していた。この想いは何年経っても色褪せない。だから、喪った悲しみも寂しさも消えない。それは仕方のないこと。
その通りだ。エレナ自身、どこかでそう思っていた。しかし、それは甘えだとも思い込んでいた。仕方のないことと断じるのは諦めであり、立ち直れない自分を正当化する言い訳に過ぎないと。
男はエレナの悲しみに寄り添い、優しく肯定してくれた。これがもし単なる気休めの言葉であったなら、エレナはその気遣いに感謝するだけで終わっていたはずだ。
けれど、彼の言葉は不思議なほど心に深く沁み込んできた。口先だけの慰めではないと、直感的に思えたからだ。
悲しみが消えない自分を、責めなくてもいいのだろうか。
エレナには、すぐに答えを出すことはできなかった。けれど、男の言葉を否定する気にもなれなかった。
男はエレナを見つめ、目元をふっと和らげた。
「それに、私には、君が立ち直れていないようには見えないな」
「どうして?」
男は悪戯っぽく微笑む。その表情は、彼を随分と若く見せた。
よく見れば、目尻にはうっすらと笑い皺が寄っている。くっきりと刻まれた年輪だ。エレナより年上であることは間違いない。
酸いも甘いも噛み分けた風情から、店主と同世代かと思っていたけれど、実はそこまで離れていないのかもしれない。
「店を畳んで泣き暮らしているわけでもない。真摯に働き、ご両親とお姉さんが遺してくれたお店を守っている。それに、こうして見知らぬ男に酒を奢って、話し相手をしてくれる程度には元気だ。……それで、十分だと思うがね」
男は穏やかに微笑む。それを見て、エレナはやはりこの男は自分よりずっと年上なのかもしれないと考え直した。そうでなければ、これほど包容力に満ちた慈父のような眼差しで自分を見つめることなどできないはずだ。
「君は立派に、君自身を立て直しているよ」
似たような言葉をかけられたことは、これまでにも何度かあった。そのたび、エレナは安堵していた。姉が亡くなってから人前で涙を見せたことはないし、弱音を吐いたこともない。傍目には、自分は立ち直ったように見えているはずだ。うまくやれていると思っていた。
ごく親しい人間の目は誤魔化しきれず、心配をかけてしまうこともあった。それでも、エレナが毎晩寝台に潜り込んだあと、一人でめそめそ泣いていることまで知る者はいなかった。
悲しさも寂しさも、胸の奥に仕舞い込んで生きてきた。それを、この男の前で初めて曝け出した。
男はエレナの弱さをすべて承知した上で、君自身を立て直していると言ってくれたのだ。
悲しさも寂しさも、いつかは乗り越えなければならないと思い込んでいた。けれど、必ずしもそうとは限らないのかもしれない。悲しみも寂しさも、抱えたままで生きていっていいのだ。それらはエレナが姉を、父を、母を愛した、大切な証なのだから。
そう思えた瞬間、すっと肩の荷が下りたような気がした。エレナの唇が綺麗な弧を描き、自然と笑い声が漏れていた。男も笑った。
「おや、笑ったな」
「いけなかった?」
「まさか。君が笑ってくれて安心したよ」
男が目を細める。まるで、眩い光を目の当たりにしたかのように。それから、朗らかに言った。
「その上、美人の笑顔まで拝めたんだ。文句などあるものか」
エレナも笑った。胸の奥がくすぐったかった。
男は、エレナの話を黙って聞いてくれた。姉を失った悲しみも、立ち直れない自分も、何ひとつ否定することなく受け止めてくれた。
エレナの告白に耳を傾けてくれたとき、男の瞳に浮かんだ暗い影。あれは憐憫などではなく、深い共鳴だったのではないか。彼自身もまた、同じような悲しみを抱えているからこそ、その言葉はエレナの心にまっすぐ届いたのではないか。
エレナは男を見つめた。男の瞳には、やはり生気のような光がない。その理由を、エレナはもっと知りたかった。
自分は誰にも明かさなかった本心をこの男に打ち明けた。男はその弱さを丸ごと受け止めてくれた。ならば、今度はエレナが男のことを知る番だ。男が抱える悲しみにも、向き合いたいと思った。
エレナは男の目をまっすぐに見つめた。あと一歩、核心へと踏み込む。
「……あなたの話も聞きたいわ」
「私の話?」
「ええ。あなたの、お酒が不味くなるような、湿っぽい話を」
男は、一目で驚いているとわかる表情を作ってみせた。本当に驚いたわけではないのだろう。仮面の裏で、大きく踏み込んできたエレナをどう煙に巻くか、考えているのかもしれない。
これがただの好奇心や興味本位と捉えられたなら、男は去ってしまうだろう。
エレナは身体ごと男の方へ向き直った。真剣に彼と向き合おうとしているのだと、姿勢でも示すために。
「もちろん、無理強いするつもりはありません。話したくないなら、そうおっしゃって。そうしたら私は、今夜のあなたの酒代をお支払いして、真っ直ぐ家に帰ります」
エレナは精一杯の誠意を込めて伝えた。伝わってほしかった。決して興味本位などではないという覚悟を示すために、自分自身のいちばん深い秘密を曝け出したのだから。
そのことで、結果的にエレナの心が救われてしまったのは、予期せぬことだったけれど。
男は黙ってエレナを見つめていた。彼女の表情の奥に、問いの答えを探しているかのようだった。エレナが何も言わずに見つめ返すと、やがて男はふっと吹き出した。
「何かおかしい?」
エレナがむっとして問い質すと、男は笑いながら首を横に振った。
「すまない、突然笑い出したりして。だが、違うんだ。君をバカにしているわけじゃない。ただ……参ったなぁ、とね」
「何のこと?」
「美人にそう言われると、つい格好をつけたくなってしまう」
「そんなものかしら」
「そんなものさ。少なくとも私はね。他の男のことは知らんし、興味もないが」
エレナは男をじろりと睨めつけた。男が適当なお世辞を言って自分を煙に巻こうとしているのなら、怒ってもいいはずだ。
片眼鏡の男はグラスを手にとり、ラム酒をひと口だけ含んだ。
そして、しばらくの間、静かに黙り込んだ。
エレナがやきもきし始めた頃になって、ようやく、口を開いた。
「……相棒を亡くしたんだ」




