空に架かる月のような
エレナと片眼鏡の男は見つめ合う。エレナはほんの少し、肩の力を抜いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
男は微笑んでいる。謎めく霧は晴れないけれど、それでも、美しい微笑みだ。エレナの口唇からこぼれたため息が、林檎酒の水面に小さな波紋を起こす。
「あなたはまるで、空に架かる月みたいな人ね」
エレナが落とした呟きを、男が拾い上げる。
「それは褒め言葉かな? だとしたら、自惚れてしまうよ」
「褒め言葉かしら。どうかしら」
わざと思わせぶりな言い方をしてみる。片眼鏡の男は面白がって食いついてきた。
「おや、意味深だ。気になるな。教えて貰えるかい?」
エレナは少し考えた。はぐらかすこともできた。けれど、正直に答えた。
「月は優しいの。何処へ行ってもついてきて、夜闇を照らしてくれる。でも、月は捉えどころがないの。満ちては欠け、時には雲に隠れてしまう。不思議なのよ。あなたもそう」
それに、月は人を寄せ付けない、とエレナは心の中で付け足す。
だから、人は月を遠くから仰ぎ見るしかない。月の表面は穴だらけだと、本で読んだことがある。けれど、エレナの目には見えない。月は遥か遠くで、美しく輝くばかりだ。
片眼鏡の男は「なるほど」と相槌を打った。グラスを手に取り、琥珀色の液面に目を落とす。一口含み、じっくりと味わう。それから、口を開いた。
「君は、読む専門? 書くことはない?」
「どうして、そんなことを聞くの?」
「なんとなく。君の選ぶ言葉は綺麗だから、書くことも出来そうだなと」
エレナは目を見開いた。頬がかっと熱をもった。
エレナには、持って回ったような、独特な言い回しをする悪癖がある。詩や物語に出てくる、情感あふれる表現に憧れたからだろう。姉はエレナを我が家の文豪と呼び、しばしば揶揄っていた。
悔やんでも、もう遅い。一度、発した言葉は取り消せない。エレナは消え入りそうな声で言った。
「ごめんなさい。心に募るまま、おかしなことを口走ってしまいました」
恥じらうあまり、男の顔を直視できない。きっと、耳まで赤くなっている。おかしな女だと思われただろうか。そう思うと、顔を上げられなかった。
エレナが羞恥に苛まれていると、片眼鏡の男は朗らかに言った。
「私も同じだ。心に募るままを口にしただけ。揶揄する意図はないさ。だから、顔を上げてくれないか」
そう促され、エレナはおずおずと顔を上げた。男は穏やかにエレナを見守っている。そこに嘲笑の気配は微塵もなかった。
エレナには夢がある。けれど、その夢を知るのは姉だけだ。エレナは優しく善良な人々に囲まれ、支えられ、今日まで生きてきた。けれど、夢を打ち明けられる相手は、姉の他にいなかった。優しく善良な人であっても、エレナの夢を聞いたら笑うか、呆れるかするだろうと思っていたから。
でも、この通りすがりの、不思議な男ならば。エレナが真剣に語るなら、それがどんなに馬鹿げた夢物語であっても、真摯に耳を傾けてくれるのではないか。そんな淡い期待が、エレナの重い口を開かせた。
「……実は、好きが高じて、物語を書いてみたこともあるわ。作家を志していた時期があって。途中で投げ出してしまったけれど」
「そうか。気が向いたら、また書いてみるといい」
思わぬ提案に、エレナは男の横顔を見つめた。
「どうして、そんなことを言うの?」
「私も読書家の端くれだからね。君が書いた物語なら読んでみたいと思ったんだ」
社交辞令か、それとも本心か。エレナには男の真意を推し量る術がない。
それでも、男はエレナの綴る物語を「読んでみたい」と言ってくれたのだ。そう言ってくれたのは、二人目だ。一人目は姉だった。エレナの胸がじんわりとあたたかくなった。
「好きなだけでは、難しいわ」
それなのに、斜に構えて返してしまう。そんな自分自身に、エレナはうんざりした。我ながら、可愛くないと思う。
でも、何度も挫折を繰り返した身として、安請け合いは出来なかった。
エレナは読書家だ。夢想家でもある。だからといって、思い描いた物語をそのまま形にできるとは限らない。想像の世界ではきらきらと眩く輝いていた物語も、いざ文章を起こそうとすると霧散してゆく。それを繋ぎ止めて物語を紡ぎ、完成させることは、並大抵のことではない。
エレナの呻吟を傍観していた男が、ふむ、と小さく唸った。
「私には、特技がある。その道を究めたとは口が裂けても言えないが、得意不得意で言えば、得意と言って差し支えない程度には上達した筈だ。今となっては、ね。最初からうまく出来たわけではなかった。子どもの頃は、かなりの劣等生だったんだ。それでも諦めずに続けていたら、なんとかものになってきた」
片眼鏡の男の言う特技とは、剣術を指すのだろう。
先程の、無頼漢たちとの一幕を思い返す。
片眼鏡の男は、屈強な無頼漢たちを前にしても、怯むどころか、始終、余裕綽々としていた。剣を抜こうとした相手に向けた言葉も、脅しというより忠告のようだった。
あれほどの腕前だ。生まれつき才覚に恵まれていたのだろうと思っていた。けれど、そうではなく、長い年月をかけて磨き上げたものだと男は言う。
「好きこそものの上手なれとはよく言ったものだよ」
男は軽やかに言った。エレナは返事をせず、彼を見つめた。
好きなものを、好きなまま、続けること。それだけのことが、どれほど難しいか。エレナは挫折を繰り返し、自身の不才を突き付けられた気になって、ついには投げ出してしまった。
けれど、一度投げ出したからといって、二度と手を伸ばしてはいけない理由にはならないのかもしれない。
そう考えると、抽斗の奥にしまい込んだ書きかけの物語が気になった。
エレナは長考の末、一言「考えてみます」と言った。片眼鏡の男は目を細める。
「ああ、是非」
男はグラスを傾ける。エレナも彼に倣った。酒場に沈黙が訪れる。エレナはそれを、気詰まりには感じなかった。しばらくしてから、片眼鏡の男がふと思い出したように言った。
「それにしても、珍しいな」
「何が?」
エレナが問うと、男は小首を傾げた。
「こういう店で、一人酒を楽しむ女性は、そう多くない」
「そうかしら」
「少なくとも、私の知る限りではね」
これは、ただの世間話のつもりだ。適当にはぐらかせばいい。男は深追いせず、引き下がるだろう。その方が、互いに困らないで済むはずだった。
しかし、エレナはこの時、それと真逆の行動をとった。
「別に、楽しんでいたわけじゃないの」
「ほう?」
「ただ……一人で家にいるのが嫌だっただけ」
口にしてから、エレナはグラスの縁に目を落とした。
会ったばかりの男に話すようなことではない。重々、承知している。けれど、この男に本音を聞いてほしいと思ってしまった。親しい人々にさえ打ち明けられなかった、切実な本音を。
家に帰れば、しんと静まり返っている。誰もいない。今夜は、それがひどく耐えがたかったのだと。
「なら、今夜の酒は随分と難儀だな」
男は言った。しみじみとした口ぶりだった。
「……どうして?」
「酒は楽しむために飲んでも美味いし、悲しむために飲んでも美味い。だが、忘れるために飲む酒は、どうも後味が悪い」
エレナは答えなかった。答えられなかった。心の中の、まだ潤む傷口を、優しくなぞられたような気がした。不思議と不快ではなかった。ただ、胸に生じた疼痛が切なかった。
なぜわかるのだろうという疑問が芽生えたが、すぐに打ち消した。わかるはずがない。男は、エレナの喪失を知らないのだから。
男はエレナの沈黙を、沈痛なものだと解釈したのだろう。そっと目を伏せた。
「すまない。当てずっぽうで物を言うのは、私の悪い癖だ」
エレナは首を横に振った。
「……いいえ。少し、驚いただけ。あなたの言う通りだから」
否定する気にはならなかった。彼の眼差しには、エレナの弱みにつけ込もうとする下心などない。ただ、気遣いだけが感じられた。
「忘れるために飲んでいるの。忘れられるはずもないし、忘れたくもないのに。……どうかしているわね」
口にしてしまえば、ひどく矛盾した話だった。
忘れたくない。それなのに、思い出すのが苦しい。
現実の孤独から逃れるために酒を飲み、忘れられないことを、また思い知らされる。
何をしているのだろう。自嘲するエレナに、男は静かに言った。
「君がどうかしているのなら、私もどうかしていることになるな」
「あなたも?」
「そう。不本意ながらね」
男は肩をすくめた。軽い調子だったが、その笑みには、暗い影がさしていた。
この男もまた、消し去れない何かを忘れようとして、今夜ここで酒を飲んでいるらしい。
片眼鏡の男は、吐息で笑った。
「君は、他人に借りを作るのを好まないと言ったね? やはり賢明だ。借りっぱなしでは、どうにも目覚めが悪くなる」
その言葉には重みがあった。彼の抱える切なさは、笑い飛ばせるほど軽いものではないのだということが、ありありと伝わってきた。
「それは、あなたの体験談?」
「まぁね」
男はグラスを傾けた。答えはひどく曖昧だった。エレナは謎の焦燥に駆られた。
「返さないの?」
空隙を埋めるために、エレナは尋ねた。男はすぐには答えなかった。言葉を探していたのかもしれないし、言葉に詰まっていたのかもしれない。どちらなのか、エレナにはまだわからない。
やがて、男は言った。
「とても返しきれない」
その声からは、先ほどまでの軽妙さが消え失せていた。
「そもそも、返す前に、相手がいなくなった」
エレナは息を呑んだ。
「それって……」
問いかけかけて、言葉を飲み込んだ。
男の表情はどこまでも穏やかだった。けれど、その穏やかさが、かえって続きを尋ねることを躊躇わせた。その奥に秘められた絶望と欠落の大きさを予感させたからだ。
男は、そんなエレナの様子に気づいたのか、柔らかな笑みを浮かべた。
「いや……この話はやめておこう。せっかく、美人の隣で頂く酒だ。台無しにするのは惜しい」
呑気な調子を取り戻した声だ。
エレナは、彼がこれ以上踏み込ませまいと、二人の間に線を引いたのを察した。無理に聞き出すつもりはなかった。そんなことをしたら、男は微笑んだままこの場を立ち去り、二度と会うことはないと確信していた。
本を火に焚べた狂気も、無頼漢を容赦なく降した冷徹も、すべて、彼の一面なのだろう。
けれど、いま隣で自分を肯定し、悲しみに寄り添ってくれるこの優しさもまた、紛れもない彼なのだ。
エレナは、この得体の知れない男に敬意を抱き、心を惹かれ始めていた。
彼の引いたその一線を踏み越えるべきではない。それはわかっている。けれど、行儀よく控えていたら、この男はこのまま、エレナの人生を通り過ぎて行ってしまう。それは嫌だった。
「忘れるための酒は、後味が悪くなる?」
だから、エレナは尋ねた。男はグラスの中の琥珀色の酒を見つめた。口唇は弧を描いたまま、開かれる。
「忘れられないにしても、思い出したくない夜もある……と、まぁ、そういうことさ」
男は再び静かにグラスを傾ける。気づけば、ラム酒も残りわずかとなっていた。
男は、一杯だけだと言っていた。つまり、残された時間は長くない。
踏み込むべきではない。わかっている。でも、このまま、別れたくない。
エレナは林檎酒を煽ると、勢いに任せて言った。
「私の話を聞いてくださる?」
「もちろん」
「お酒が不味くなるような、湿っぽい話でも?」
「構わないよ。聞かせてくれ」
男は頷いた。
優しい。言葉も、声も、眼差しも。
その優しさに勇気づけられ、エレナは胸襟を開いた。
「五年前のこの日、姉が亡くなったの」
男が僅かに瞠目した。




