交わす言葉
カウンターの端には、飲みかけの酒と肩掛け鞄が置かれている。エレナの席だ。片眼鏡の男はエレナを振り返り、どうぞと着席を促した。エレナが席に着くのを待ってから、尋ねる。
「隣、いいかい?」
「どうぞ」
「ありがとう。では、お邪魔するよ」
男はエレナの隣に腰を下ろすと、店主の背後にある酒瓶棚に目をやった。軽く手を挙げ、店主を呼ぶ。
「ラム酒を」
店主は「おう」と唸るように返事をして、こちらに背を向けた。エレナは、その背中を眺めるともなく眺めていた。
片眼鏡の男は会話を求めているのだろう。そうでなければ、エレナの隣の席を選ぶ必要がない。何か話題を振ったほうがいいのかもしれない。
しかし、何を話せばいいのだろう。何も思い浮かばない。濡れ布巾が体温を含んで暖まっていく。
エレナが内心で悶々としていると、片眼鏡の男がこちらを見た。目が合うと、小首を傾げた。
「君は何を飲む?」
思いがけない問いに、エレナは目をぱちくりさせた。話題を探しても見つけられず困っていたところだったので、向こうから声をかけてくれるのはありがたい。しかし、その内容が想定外だった。
片眼鏡の男は笑った。青空がよく似合うであろう、朗らかな笑顔だった。
「遠慮は要らない。話し相手をしてもらっているお礼だ」
エレナはすぐには答えられなかった。答えは決まっていたけれど、躊躇いがあった。二の腕に当てていた濡れ布巾をぎゅうと握り締める。
捩れる布巾をちらりと見て、男は目を伏せた。カウンターテーブルに伏せるようにして、エレナの顔を覗き込む。
「それとも……もう帰るところだったかな」
憐れっぽい上目遣いに狼狽したエレナは、慌てて首を横に振った。
「いいえ。でも、お酒をご馳走になるのは、遠慮します」
否定し、きっぱりと断った。そして、不安になった。断ることに気を取られ、きつい言い方をしてしまったかもしれない。男の厚意を無碍にしたいわけではないのに。
片眼鏡の男はけろりとした顔で上体を起こすと、ぐるりと店内を見回した。片眼鏡の男が気分を害したり、落ち込んだりしたようには見えなかった。少なくとも、エレナの目にはそう見えた。
「そうか。なら、酒以外の飲み物は? ふむ、酒の肴も、食事もあるのか。そちらはどうかな?」
壁に貼られたお品書きに目を通しながら、次々と提案してくる。もしもエレナが少しでも及び腰になれば、あれよあれよいう間にエレナの遠慮を巻き取ってしまいそうだ。我に返った頃には、酒や肴がエレナの前に饗されていることだろう。
エレナは首を横に振った。己の意志を曲げるつもりもなかった。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、そうじゃなくて。私があなたに、お酒をご馳走したいわ」
男は目を丸くした。それから苦笑して、頬を掻いた。
「律儀だな。本当に、気にしなくていいのに」
「いえ、そうじゃなくて。……私、借りを作るのは、あまり好きじゃないの」
助けてくれた相手に、こんな言い方をするのは失礼かもしれない。厚意を無碍にしたと捉えられてしまいかねない。それでも、本心を隠して迎合することは不誠実だと思った。
片眼鏡の男はゆっくりと瞬きをして、肯いた。
「なるほど」
気分を害したようには見えない。だが、それが正しい認識なのかどうかはわからなかった。エレナは片眼鏡の男に詫びた。
「ごめんなさい。お気を悪くされていなければいいのだけれど」
「まさか。感心したよ。君は賢明な女性だ」
エレナは濡れ布巾を畳み、カウンターテーブルに置く。腕捲りしていた袖をおろすと、ひとつ息を吐いた。
「可愛げがないと、よく言われます」
「それは気の毒だな」
片眼鏡の男はさも当然のように言った。
「君を口説けなかった男たちの負け惜しみに、付き合わされているわけだ」
エレナは目をぱちくりとさせた。否定するのも肯定するのも違う気がした。答えあぐねていると、片眼鏡の男は話を続けた。
「素性の知れん男に、借りを作るべきではない。君のように美しい女性は、特に気をつけなければ。図々しい男は、ちょっと甘い顔をするとすぐにつけあがる。ちなみに私は、褒められるとすぐにつけあがるんだ。そのせいで何度か痛い目を見た」
そう言って、おどけてみせる。エレナはくすりと笑った。
「あなたは、引き際を弁えている方だとお見受けします」
「今は、そうであろうと努めているよ」
二人が笑い合っていると、店主が振り返った。酒を注いだグラスを、片眼鏡の男の前に置く。
「ラム酒だ」
「支払いは私に」
エレナはすかさず店主に告げた。店主は怪訝な顔をした。
「この一杯に限り、金はとらん」
「いいえ、おじさん。私に払わせて。迂闊なことをして、おじさんにも迷惑をかけてしまったもの」
エレナがそう言うと、店主は顰め面で言い返してくる。
「……迷惑なんざ、かけられた覚えがないが」
エレナは苦笑した。店主は昔から、なんだかんだ言っても、エレナたち姉妹には甘かった。
「それでもだめよ。この方に助けて頂いたのは私だもの。私がお礼をしなければ、筋が通らないわ」
「ここは俺の店だぞ。助けられたのは、俺も同じだ」
「だったら、おじさんはこの方に、おつまみを出して差し上げたら?」
店主の反対を笑顔で押し切って、エレナは片眼鏡の男に向き直る。エレナを見つめる男に、微笑みかけた。
「ご心配なく。これでも私は、この辺りで一番の品揃えを誇る古書店の店主なので」
エレナの強引さに、片眼鏡の男はいささか面食らった様子だ。けれどすぐに、愉快そうに笑い出す。
店主はため息をつくと、厨房に向かった。
「では、店主どののお言葉に甘えるとしようか」
片眼鏡の男は哄笑の名残を噛み殺しつつ、言った。エレナは片眉を跳ね上げる。
「そんなにおかしいかしら?」
「いや……すまない。君が素敵だから、嬉しくなってしまった」
「そう? なら、良かった。私、家業をバカにされると、つい、むきになってしまうものですから。あなたとは、仲良くおしゃべりしたいわ」
「バカにしたりするものか。本は良いものだ。私はこう見えて読書家でね。東の言葉を学び、訳しながら読んだこともある」
「本がお好きなの?」
「ああ。趣味を聞かれたら、読書と答えることにしている」
「答えることにしている?」
「そう。もっとも、それを言うと、すかさず文句をつけてくるやつがいたんだが」
「文句をつけてくる?」
つい、鸚鵡返しを繰り返してしまう。男は苦笑した。襟巻きの毛羽立ちを撫でつけながら、頭を振る。
「気にしないでくれ。よくある昔話だ」
「読書家なら、どうして本を火に焚べてしまったの?」
口が滑った。しかし、後悔はなかった。むしろ、これでよかったと思った。この男との間に妙な蟠りを残したくなかった。
男は正面を向いた。沈黙が続く。今度こそ、怒らせてしまったかもしれない。不安になったエレナは恐る恐る、男の顔色をうかがった。そして、はっとした。
男の横顔から、笑顔がつるりと滑り落ちていた。
「……あんなもの。すべて燃えて、灰になればいい」
男は言った。抑揚のない声には、一切の感情が乗っていなかった。
剥き出しになったのは、虚無。
これには、見覚えがある。死面だ。魂を失った、抜け殻の面。
父、母、そして、姉。皆、この死面を被らされ、棺に納められた。泣いて縋っても、二度と目を覚まさなかった。
エレナは慄いた。
この男、生きながらにして、死んでいるようだ。
暫時を経て、男は慨然と溜息をついた。
「……いや、違うか。何が書かれていようと、本は本だな。粗末に扱うべきではない。お叱りは甘んじて受けよう」
そう言って、男はエレナに向き直る。生きている人間らしい表情が、そこにはあった。困っているような、悲しんでいるような、そんな表情。
はりつけたようだと、エレナは思った。
「……気分が悪いのかな?」
男に気遣われ、エレナは我に返った。
「いいえ、なんでもないの。ぼうっとしてしまって、ごめんなさい」
「それなら、よかった」
男は微笑んでいる。その瞳にきらめきがないことに、エレナはこの時はじめて、気が付いた。
エレナは慎重に言葉を選ぶ。
「あなたを責めるつもりはありません。本を粗末にする人は、正直、嫌いだけれど……あなたであっても、あの本に描かれた物語を嫌悪するのは無理もないことだと思います」
エレナはそこでいったん、言葉を切った。
厨房から戻ってきた店主が、干しイチジクとチーズの盛り合わせを運んでくる。エレナはそれを受け取り、男の前に置く。男はエレナと店主、それぞれに礼を言った。しかし、酒にも肴にも手を付けようとしない。エレナの言葉を待っているようだ。律儀な男だとエレナは思った。
「だって、あなたは女性を大切にしてくださるから」
エレナは言った。お世辞ではなかった。この男がエレナに示してくれた気遣いには、真心が感じられた。エレナはその真心に感謝し、敬意を払いたかった。
エレナの思いが正しく伝わったかどうかはわからない。片眼鏡の男は、莞爾と微笑んだ。
「お褒めにあずかり光栄だが……どうやら君は、少々、私を買い被っているようだ。私のこれは長所ではなく短所だよ。魅力的な女性の前では、つい、格好をつけたくなってしまう。それだけさ」
そう言って、エレナに向けてグラスを軽く掲げた。ラム酒をひと口飲み、目を細める。
エレナも男に倣って、グラスに口をつけた。
干しイチジクをつまみながら、片眼鏡の男は尋ねた。
「君はどうなんだ? 商売だから本を扱っているのか、それとも、君自身、本を好むのか」
エレナは目を瞬かせた。
「考えたこともなかったわ。生まれたときから本に囲まれていて、本を読むのが当たり前だったから」
「なるほど。では、本はよく読む方なんだね」
「ええ。仕入れた本は片っ端から目を通すようにしているの」
「全て?」
「全てよ」
片眼鏡の男は眉を上げた。
「たいしたものだ」
「ありがとう。でも、書店の店主なのだから当然よ。読んだこともない本を、お客様にお渡しするなんて、おかしいでしょう?」
「違いない。だが、そこまで真摯な店主には、なかなかお目にかかれるものではない」
「たいしたことじゃないわ。先代がそうだったから、真似をしているだけ」
「謙虚だな、店主殿」
男が笑う。嫌な感じはしない。ただ楽しそうに笑っている。それでもエレナは決まりが悪くなって、俯いた。
褒められるのは素直に嬉しい。けれど、生来の性分が邪魔をする。
「ごめんなさい。せっかく褒めてくださっているのに。昔からそうなの。頭でっかちの、素直になれない、捻くれ者。姉にもよく叱られたわ。そういうところが可愛くないって」
口にしてから、姉の顔が脳裏をよぎった。呆れ顔、困り顔、笑顔。そのすべては思い出のなかにある。
片眼鏡の男はラム酒をちびちびと飲みながら、言った。
「お姉さんには悪いが、私はそう思わないな。その誠実さは君の美点だろう」
思いがけない言葉に、エレナは瞠目した。
エレナは誠実であろうとしている。しかし、それに固執するあまり、融通が利かないところがあると、自覚していた。それを、自身の欠点だと捉えていた。
ところが、この男はあっさりと、エレナの有り様を肯定した。
この男がエレナの本質を見抜いたとは思わない。この男はエレナのことをよく知らず、エレナもまたこの男のことをよく知らない。素性はおろか、名前さえ知らないのだ。
それでも、心地よかった。
知らない相手だからこそ、素直に受け取れる優しさもあるのかもしれない。




