いくつもの顔
頭目が去り、酒場はしんと静まり返った。
ひとまず、危機は去ったらしい。
エレナは、深く長く息を吐いた。知らず知らずのうちに息を詰めていたらしい。張り詰めていた緊張の糸が緩み、膝ががくがくと笑った。
腹の底には依然として、重苦しい疑念が残っていた。
片眼鏡の男は、本当に五人の賞金稼ぎを屠ったのだろうか。
少なくとも、頭目はそう確信していたはずだ。去り際、頭目が片眼鏡の男に向けた目には、隠しきれない恐怖が宿っていた。
それに、片眼鏡の男が冷ややかに告げた「熊の腹が満たされている、今のうちにお逃げ。出来る限り遠くへ」という言葉。
あれも、どうにも引っかかる。まるで『殺されたくなければ失せろ』という、脅しのように聞こえた。
確証はない。すべてはエレナの思い過ごしかもしれなかった。思い過ごしであればいい、とも思う。
片眼鏡の男はエレナを助けてくれたのだ。その事実から目を背け、片眼鏡の男を悪人と決めつけたくはない。
エレナは、片眼鏡の男の横顔をそっと窺った。
男は、無頼漢たちが陣取っていたテーブルへ目を向けていた。酒は溢れ、料理はひっくり返り、散らかり放題だ。その片隅に、彼らが悪趣味な話の種にしていた本『義賊の末路』がぽつんと取り残されている。
持ち主たちが取りに戻ることはないだろう。このままでは、店主に捨てられてしまうに違いない。店主はこの本を毛嫌いしている。
エレナ自身、そこに綴られた内容には思うところがある。
無頼漢たちの会話を聞いて、その嫌悪感は増すばかりだった。
それでも、本は本だ。内容が気に喰わないからといって、その存在価値まで否定するべきではない。
片眼鏡の男が、テーブルに近付いていく。その視線が、本の表紙に吸い寄せられる。
片眼鏡の男の表情が一変した。
目を見開き、息を呑む。その若草色の瞳に、底知れぬ激昂と拒絶が暗く閃いた。
男は本を引っ掴むと、赤々と燃える暖炉へ放り込んだ。火の粉が爆ぜ、本は一瞬で炎に呑まれる。革と紙とインクが焼ける臭いがする。黒い煙が立ちのぼり、煙突に吸い込まれていく。
「……あっ」
エレナは思わず声を上げた。
どんな本であれ、いつか誰かの人生を変える一冊になるかもしれない。それを灰にしてしまうなんて、エレナにはどうしても許せなかった。
片眼鏡の男が振り返る。エレナは咄嗟に身構えた。
ところが、エレナと向き合った片眼鏡の男の顔に、凄絶な激情は影も形もなかった。気恥ずかしそうに頭を掻き、片眼鏡の男は言った。
「……少々、大人気なかったな」
悪戯を見咎められたかのような口ぶりと素振りだった。
咎める言葉が喉元まで出かかっていたけれど、エレナはそれをぐっと呑み込んだ。
片眼鏡の男を鎧う、余裕の裂け目。そこから覗いた暗い謎が、エレナの口を重く閉ざしたのだ。
いったい、何が彼を、あれほどの暴挙に駆り立てたのだろう。
エレナは炎に焼かれ、黒く小さくなってゆく本から目を逸らした。そうすると、視界の端に店主の姿が映り込む。カウンターにしがみつき、痛む体を起こそうとしていた。
「おじさん!」
我に返ったエレナは店主のもとへ駆け寄り、その背を抱えるようにして立ち上がるのを手伝った。
「おじさん、大丈夫?」
「ああ、平気だ。お前は?」
「平気よ。……あの方が、助けてくださったから」
エレナの無事を確かめると、店主は片眼鏡の男へ向き直る。徐に口を開いた。
「……あんたには、礼を言わなきゃならんな」
片眼鏡の男は肩をすくめて応える。
「礼には及ばない。手前勝手に喧嘩をしただけさ」
「そうかい」
店主はそれだけ言うと、カウンターの向こうへ回り込んだ。黙々とグラスを磨き始めた。
その無愛想さに、エレナは閉口した。助けてもらったのだから、もう少し愛想よくしてもいいだろうに。
けれど、店主が警戒する気持ちも分からなくはなかった。あの立ち回りは尋常ではなかったし、頭目と対峙したときに垣間見えた冷酷さは、エレナの心に焼き付いた記憶からも消えていない。
そこでエレナは、自分自身もまだきちんとお礼を伝えていないことに思い至った。これでは、店主のことをとやかく言える立場ではない。
エレナが意を決して声をかけるより先に、片眼鏡の男のほうが言葉をかけてきた。
「災難だったね、お嬢さん。腕は痛まないだろうか?」
男の気遣いに、エレナはおずおずと肯いた。
「……ええ、大丈夫。平気です」
「念のために、見せてもらっても?」
エレナは一瞬、躊躇った。無頼漢の手を捻り上げ、肘の関節を外したあの鮮やかで残酷な手際が、脳裏をよぎる。
それでも、彼は自分を助けてくれた恩人だ。あからさまに怯えるのは失礼だと自分に言い聞かせ、袖を捲った。恐る恐る、腕を差し出した。
「……はい」
「ちょっと失礼」
片眼鏡の男は断りを入れ、エレナの腕に視線を落とした。
触れられるかと思い身体が強く強張ったが、男は彼女に触れようとはせず、ただ身を屈めて傷の有無を確かめた。
日に焼けていない白い肌には、生々しい赤い指の跡がくっきりと残っている。片眼鏡の男はそれを見て、痛ましそうに眉をひそめた。
「赤くなっている。破落戸どもめ、やり過ぎだ。若気の至りではすまんぞ」
エレナは男の顔を見上げた。そこには苦々しい影が滲んでいる。
エレナの身を、心から案じてくれているようだった。
この人には、確かに優しさがある、とエレナは思った。あの容赦ない立ち回りを見ても尚、彼を冷酷なだけの人間だとは思えない。
人はそう単純なものではない。
人に優しくできることと、罪を犯していないことは別なのだろう。穏やかな顔の裏に、他人には窺い知れない業や痛みを秘めていたとしても、何ら不思議ではないのだから。
片眼鏡の男はあっさりと身を引き、エレナから離れると、店主に呼び掛けた。
「何か、冷やすものを借りられるか?」
「……ちょっと待ってろ」
店主はぶっきらぼうに答え、厨房へ引っ込んだ。
エレナはその背中を目で追いながら、嘆息する。警戒するのは無理もない。とは言え、もう少し敬意を払えないものだろうかと歯痒く思った。
程なくして戻ってきた店主は、濡らした布巾をカウンター越しに差し出した。
「ほらよ」
「どうも。助かる」
片眼鏡の男は濡れ布巾を受け取ると、恭しくエレナへ差し出した。
「どうぞ」
エレナはそれを受け取り、改めて片眼鏡の男の顔を見上げた。彼は微笑んでいた。人を食ったような嘲笑でも、不敵な冷笑でもない。純粋に優しい微笑みに見える。
エレナの唇から、ぽろりと感謝の言葉が零れ落ちた。
「……ありがとうございます。助けてくださって」
やっと言えた。エレナは肩の力を抜いた。男はゆっくりと瞬きをし、目元を和らげる。
「気にしないでくれ。私が勝手にしたことだ。彼等の無礼は目に余ったのでね」
片眼鏡の男は軽く肩をすくめ、誰もいなくなったテーブル席へ視線を移した。椅子は倒れ、ジョッキはひっくり返り、割れた皿が散らばっている。男は静かに目を伏せた。長い睫毛が、削げた頬に物憂げな影を落とす。
「もっと穏便に済ませるべきだったかな。連中を懲らしめてやるつもりが、君にも店にも迷惑をかけてしまった」
そんなこと、とエレナは言いかけて口を噤み、店主へ視線を向けた。店主は散らかったテーブルへ向かい、片付けを始める。エレナは手伝おうとするも、振り返らず「お前は客だ」と言って制したので、立ち止まる。内心、舌を巻いていた。店主は背中に目でもついているのだろうか。
男は右手で杖を突き、左手を腰に当てた。腰を捻って店主を振り返る。無事な食器を手際よく片付け、厨房とテーブル席を往復する店主を眺めながら、片眼鏡の男は言った。
「では、私が手伝おうか?」
「これは俺の仕事だ。要らん気を回さんでくれ」
店主の答えはにべもない。エレナは落ち着かない心地で二人を見比べた。二人の間を取り持とうにも、何も言えなかった。
そもそも、片眼鏡の男とどのように接したものか、エレナ自身も決めかねている。
エレナを救ってくれた恩人。
無頼漢の頭目に恐れられる、底の知れない強者。
躊躇いなく本を火にくべてしまう男。
どれも、目の前にいる、同じ人間の姿のはずだ。
それなのに、エレナにはまだ、そのすべてを一人の人間として結びつけることができずにいた。
暖炉の中で、焼け崩れた本のページが、かすかな音を立てて崩れ落ちた。
エレナは冷たい布巾を腕に押し当て、俯いた。
沈黙を破ったのは、片眼鏡の男だった。
「お大事に。では、私はこれで」
エレナは顔を上げた。片眼鏡の男は軽く会釈すると、エレナと店主に背を向けた。
「えっ……待ってください」
思いがけず立ち去ろうとする男に、エレナは思わず声を上げ、男を引き止めた。
「もう、帰ってしまうのですか? あなたはお酒を楽しむために、ここへ来たのでは?」
助けてもらった礼も、まだ十分に伝えきれていない。それに、このまま彼が立ち去ってしまえば、何も分からない。あの本を目にした瞬間の激昂も、頭目と対峙したときの冷酷さも、エレナを気遣ってくれた優しさも。すべてが謎のままになる。
尋ねたところで答えてくれるとは限らない。それでも、彼が見せたいくつもの顔が、彼の中でどうつながっているのかを、確かめたかった。
男が振り返る。エレナの戸惑いを、彼は穏やかな笑顔で受け流した。
「いいんだ。邪魔をしたね」
「……待ってくれ」
重々しい声で呼び止めたのは、店主だった。食器の残骸を片付け終え、のそのそとカウンターの内側へ戻って来る。
「一杯、引っ掛けていったらいい。つまみくらい、つけてやる」
ぶっきらぼうな言い方だった。歓迎しているというより、このまま帰されてはかえって後味が悪いという意地と義理立てが見え隠れする口ぶりだ。
それでも、先ほどまで頑なに口を閉ざしていた店主が、自分から酒を勧めたのだ。エレナはほっと胸を撫で下ろした。
「ですって」
エレナが片眼鏡の男を見上げると、彼は一瞬だけ意外そうに目を丸くした。
それから、どこか可笑しそうに口元を緩める。
「では、お言葉に甘えて、一杯だけ」
片眼鏡の男は杖を持ち直し、カウンター席へと足を進めた。




