共に明かす夜 二
エレナは寝台に腰かけたまま、カーテンに覆われた窓に目をやった。
夜の闇に沈んだ町は、もう眠りについているだろうか。
酒場で店主と他愛ない会話をしたことも。無頼漢たちに脅かされたことも。この男に救われたことも。今夜の出来事がすべて、物語の一幕であるかのようだ。
けれど、これは現実だ。
男と出会い、その危うさを警戒しつつ、去り行く男を引き止めたことも。言葉を交わすうちに、内包する悲しみが共鳴したことも。男に心惹かれ、誘いを受けたことも。
紛れもない現実だった。
我ながら、ずいぶんと思い切ったことをしたものだと思う。恐れも迷いも躊躇いも、未だに拭いきれない。それでも、男と共に過ごす限られた一夜を諦めきれない。
一刻でもいいから、この男と心を通わせたい。それが叶わないなら、せめて、一生の思い出が欲しい。
エレナは小さく息を吐いた。
「……不思議ね」
「何が?」
男は顔を傾け、エレナの額に自身の額を寄せた。彼の吐息を感じた唇が、じんと痺れるような気がした。
居た堪れなくなって、膝の上で組み合わせた手に目を落とす。固く握り合わせた両手は、情けなくも、小刻みに震えていた。
エレナは震えを誤魔化すために、手遊びをしてみた。男がそれについて何か言ったが、頭に入ってこなかった。暫時を経て、エレナはぽつりと呟いた。
「あなたと私が、ここでこうしていることが」
「思わぬ出来事も起こるさ。だからこそ、人生は面白い」
男の大きな手が、エレナの手を包み込む。かたく冷たいのに、やわらかな温もりを感じられる、不思議な手。
エレナは顔を上げた。目と目が合い、男は相好を崩す。心晴れやかな笑顔を見て、エレナは思う。
この男はかつて、心から人生を楽しんでいた。相棒を喪い、人生の輝きをも失うまでは。
虚ろな瞳も、深く刻まれた隈も、深い喪失の証なのだろう。
男が美しい笑顔を咲かせても、それが色褪せて見えるのは、彼が今を、心から楽しめていないからだ。
男がエレナの左頬に手を当てる。身震いするエレナの耳に唇を寄せ、男は囁いた。
「人生は楽しんだ者勝ちだ。君も、楽しんでくれ」
男の顔は見えない。けれど、どんな表情をしているか、想像に難くない。きっと、美しく微笑んでいる。
空に架かる月のように、深く抉れた傷をひた隠しにして。
月の裏側には、何があるのだろうか。気になる。知りたい。けれど、エレナは彼の喪失に思いを馳せることはしなかった。
そうするかわりに、目を瞑り、男に身を委ねた。今はただ、男の言う通り、共に過ごす、豊かな時間を楽しみたかった。
交歓は深まり、やがて、男はエレナが未通だと知った。
それまで、しきりにエレナを褒めそやしていた男が、口を噤んだ。短くない沈黙を経て、男はエレナの頬を両手で包む。そして、エレナの目尻に浮かぶ涙を親指の腹で拭った。胼胝のひび割れが、潤んだ肌に擦れる些細な摩擦さえ甘美に感じられた。
しかし、陶然とするエレナの想いとは裏腹に、男は手を止め、エレナにこう告げた。
「今からでも遅くない。君には断る権利がある」
エレナは男と見つめ合った。この期に及んで、慈父の微笑みを向けられている。それが、たまらなく癪に障った。
だから、エレナは男を睨み上げ、ぴしゃりと言った。
「野暮なことを言わないで」
年下の小娘に叱られ、目を丸くする男の背を強引に抱き寄せる。ついでに、爪を立ててやった。
男は短くない沈黙を挟んでから、苦笑した。
「これは失敬」
それ以上、野暮なことは言わなかった。
それより先に進んでも、男は相変わらずだった。エレナを傷つけないよう、細心の注意を払ってくれた。初めて体を開くことは苦痛を伴ったが、それは想像していたよりもずっと軽かった。男の心遣いの賜物であろう。男は献身的だった。睦言や愛撫を尽くして、エレナを愉しませてくれた。男の奉仕は、こそばゆくも心地よかった。
男は始終、優しかった。
それでも、これは一夜限りの恋なのだ。
体を委ねたからと言って、心まで委ねてしまってはならない。わかっている。それなのに、男に微笑みかけられると、愚かしい錯覚が、心の奥に芽生えそうになる。
事を終えると、男は甲斐甲斐しくエレナの世話を焼いた。エレナの体を清め、喉を潤す。
エレナは男の為すが儘になりながら、擽られた幼子のように身を捩って笑った。姉が亡くなって以来、こんなに甘やかされたことも、甘えたこともなかった。それが妙に照れくさくて、嬉しかった。
男の腕枕に頭を預け、男の懐に抱かれながら、エレナは共寝する男の顔に手を伸ばした。目の下に触れる。隈が色濃く刻まれている。指先でそれをなぞると、男は猫のように目を細めた。エレナもまた、髪を撫でられる心地よさに目を細めながら、呟いた。
「……あなた、やっぱり、眠れてないのね」
「そう見えるかい?」
「見えるわ」
すると、男はすっと手を引いた。天井を仰ぎ、大袈裟に嘆いてみせた。
「と言うことは、さぞかし老け込んで見えるのだろうね。まったく、歳はとりたくないものだ」
そうして、エレナの指摘を受け流す。それ以上は語らなかった。これ以上は踏み込ませないと、決めているのだろう。
夜には限りがある。体を重ねても心を交えても、出会って間もない関係には、限界がある。
わかっていたことだ。切なく疼く胸の内に気づかないふりをして、エレナは男に身を寄せた。
互いに言葉が減り、沈黙が増えてゆく。それが不思議と心地良い。エレナの髪を撫でる手が、微睡みを誘う。
そうして、いつの間にか、眠りに落ちていた。目を覚ますと、エレナは一人、整えられた寝台に取り残されていた。
ゆっくりと上体を起こす。耳を澄ませば、洗い場から水音がする。身を清めているようだ。
目が覚めたとき、男が隣にいてくれなかった。そのことに、エレナは一抹の寂しさを覚える。有り体に言うと、裏切られたような気分だった。
エレナは寝台の上で膝を抱えた。自嘲の笑みが溢れる。
裏切られたとは、我ながら酷い言種である。男はすぐそこにいる。エレナが寝ている間に、身を清めていた。それだけのことで傷心するなんて。自分がこんなにも厄介な女だったなんて、エレナは知らなかったし、知りたくなかった。
エレナは長く息を吐く。気を紛らわせたくて、寝台の頭板に手を伸ばした。自身の鞄を手繰り寄せ、中から本を取り出した。
おまじないの本。この本を枕元に置き、気になる相手に触れながら、共に眠る。たったそれだけで、相手の夢を覗き見ることが出来るという。
男は亡くなった相棒の夢を見ると話していた。しかし、まともに眠れていない様子だ。相棒の夢は、男にとって、慰めにならないのだろうか。相棒について、あんなに愛おしそうに語るのに。
もし、エレナが訊ねても、男ははぐらかし、教えてくれないだろう。
エレナは頭板に頭を預け、掛布を胸まで引き上げると、本を開いた。ぱらぱらと頁を捲る。奇妙な図形と記号の羅列を眺めつつ、エレナは男の相棒に思いを馳せる。
とんでもないお喋りで、男にべったりで。それで、いったい、どんな人なのだろう。
何を好み、何を嫌い、何を大切にしていたのか。男と何を語らい、何をなしたのか。どんな顔をしていたのか、どんな人柄をしていたのか。
男に聞いても、はぐらかされてしまうに違いない。
だったら、夢を覗き見てしまえばいい。
頁を捲りながら、エレナは失笑する。
そんなこと、出来るはずがない。寧ろ、出来たら困ってしまう。禁を破り、魔術品に手を出した背信者の物語は、めでたしめでたしでは締め括られない。そもそも、魔術品は稀少な代物であり、田舎町の古本屋に持ち込まれるものではない。
だから、これは単なる戯れだ。
夜が明ければ手放さなければならないと知りながら、恋に落ちた。そんな酔狂者が興じるに相応しい、戯れに過ぎないのだ。
扉が開く音がした。目を上げると、洗い場から男が出てきたところだった。シャツを着て、ズボンを履いているから、目のやり場に困ることにはならなかった。
男は眉を下げ、首を竦めた。雨に濡れた仔犬を思わせる、舞い上がった女の庇護欲を巧みに掻き立てる表情と仕種だった。
「起こしてしまったかな?」
「いえ、自然と目が覚めたの」
エレナは微笑み、答えた。的外れな恨み言が紛れ込まないように、言葉を切り詰めた。
男は愁眉を開き「それならよかった」と言った。寝台に腰掛けると、長い脚を持て余すように組んだ。本を読み続けるエレナに問い掛ける。
「何を読んでいるんだい?」
エレナはどきりとした。男の声調に咎める響きは一切無い。心に疚しさがなければ、こんなに狼狽えることはなかっただろう。
「読み終えたら、教えてあげる」
エレナは何食わぬ顔で嘯いた。
エレナは売り物の本を店から持ち出すとき、本を傷つけないように、革の覆いを取り付ける。今はそれが目隠しの役目を果たしてくれて、心強かった。表紙を見られたところで、他者の夢を覗き見るおまじないの本だとはわかりはしないのだけれど。
男はエレナに覆いかぶさるようにして身を寄せると、小首を傾げた。
「今は教えてくれない?」
「読み終わるまで、教えない」
「おや。意地悪をされてしまった」
語尾に笑いが滲む。エレナもくすくすと笑う。男は靴を脱ぎ捨て、寝台に上がった。エレナの隣に潜り込み、本を覗き込もうとする。
エレナはさっと本を傾け、本の内容を男の目から隠した。男は肩を揺らして笑うと、ゴロンと転がり仰臥した。今のはエレナをからかっただけで、読書の邪魔をするつもりはないらしい。交わりの余韻を味わうのとなく、読書に没頭する無粋を咎めるつもりもないのだろう。
エレナは男の横顔をちらりと見た。
見れば見るほど、疲れきっているようだ。それなのに、目は冴えているらしい。
エレナは黙々と本を読み進めた。読み進めると言っても、図形と記号の羅列に目を通すだけだ。然程、時間をかけず、読み終えることができた。
本を閉じ、枕元へそっと忍ばせる。
男はエレナのほうを向き、寝台に頭を埋めるようにして首を傾げた。
「もういいのかい?」
「ええ、もういいの」
「もう読み終えた?」
「まだよ」
嘘をついた。
彼の夢を覗き見たい。その願いを口にすれば、男はどう思うだろうか。興味を持って貰えて嬉しいと、口ではそう言うかもしれない。では、本当に夢を覗き見られたら? いくら寛大であっても、流石に気分を害するだろう。この男に幻滅されたら、立ち直れなくなってしまいそうだ。
エレナの嘘に、男が気付いたのかどうかは、わからない。気付いたとしても、気にしないことにしたらしい。男は話を続けた。
「では、私はこの本について、教えて貰えないのか」
「明日中には、読み終えると思うけど」
「残念だが、明朝、出立するんだ」
「……そう」
「名残惜しいよ」
男は言った。その言葉に、ほんの少しでも、本心はあるのだろうか。
エレナには分からない。当然と言えば当然だ。出会ったばかりなのだから。
ついさっきまで、存在すら知らなかった男だ。それなのに、迫る別れが辛かった。
もっと話がしたい。彼はどこから来て、どこへ向かうのか。何を好み、何を嫌うのか。何を願い、何を求めるのか。もっと話して、教えて欲しい。
「……ええ。でも、夜明けまで、まだ時間があるわ」
エレナはそう言うと、男の目許に手を伸ばした。触れるか触れないかの加減で、右目を縦断する傷跡をなぞる。反射的に目を瞑った男に額を寄せる。たった一度の交わりで、ここまで大胆になれたのは、男が優しく解きほぐしてくれたからだ。そうでなければ、エレナは今頃、縮こまって震えていただろう。
エレナは男の額にかかる髪を耳にかけてやりながら、提案した。
「一緒に眠りましょう」
男はゆっくりと瞬きをした。エレナをまじまじと見つめる。それから、口角を上げた。
「どうしようかな」
「あら、さっきの仕返し?」
「まさか。朝まで、君の愛くるしい寝顔を眺めて、目に焼き付けてるのも、悪くないと思ったのさ」
男は笑う。冗談を交え、話を逸らし、肝心なところには触れさせない。それが、この男の処世術なのだ。
もし、誰に対してもこうして接し、煙に巻いているのだとしたら。辛くないのだろうか。誰にも本心を打ち明けられずにいたら、行き場のない思いが胸を塞いでしまいそうだ。
相棒には、本心を打ち明けられたのだろうか。その相棒を亡くしたから、こんなにも窶れているのだろうか。
エレナは男の頬に手を添えた。唇に触れて、立て板に水で続きそうな甘い言葉を堰き止める。
「だめよ。私をひとりにしないで」
エレナは言った。心の奥に秘めるべき言葉が、さらりと口をついて出た。少し後悔したものの、食言は意味をなさないだろう。
男の手が、彼の頬に触れるエレナの手に重なる。男はエレナの掌に頬擦りをして、目を細めた。
「離れないさ。今夜の私は、君のものだ」
嘘つき。さっきは一人にした癖に。
そう言ったら、男はどんな顔をするだろう。確かめたい気もしたが、やめておくことにした。女心を掌でころころと転がすことに慣れているであろう女誑しが、寝台に一人残された女が拗ねることにすら思い至らない。その手落ちが、なんだか可笑しくて、可愛げがあって、愛おしいから。そのままでいて欲しいと思った。
「なら、夢のなかでも一緒にいて」
エレナは打てば響くように言葉を返した。尻込みしている暇はない。時間は限られている。悔いのないようにしなくてはならない。
男は目を丸くした。食い入るようにエレナを見つめる。そして、笑みが崩れた。
「末恐ろしい子だ。そのお強請りを断れる男は、滅多にいないだろう」
男の妥協を引き出し、エレナは内心、よしと拳を握った。
男が差し出した腕に頭をのせて、寝台に身を横たえる。男に抱き寄せられ、その胸におさまる。
エレナは、枕元に忍ばせた本の存在を意識した。
信じているわけではない。あんなおまじないが本当に効くとは思えない。彼と共に眠りについたところで、何も起きないだろう。
それでも。
彼がほんの少しでも、安らかに眠れるのなら、それでいい。
「いい夢を見てね」
エレナはそう言って、男の頬を撫でた。男は口を開いたが、何も言わずに口を閉ざした。答えるかわりに、エレナを抱き締めた。その力強さに驚いたのも束の間のこと。エレナもまた男を抱き締めた。
二人の息遣いが重なると、それは子守唄のように、エレナを眠りへ誘う。微睡みの最中、くぐもった声が聞こえてくる。男の声だ。
「……嘘なんだ。本当は、一人なんだ。あいつが死んでから、ずっと、一人きりだった。寝ても醒めても、あいつはいない。頭の中にも、夢の中にも、どこにもいない。思い出さえ、いつか、朧げになって消えてしまうだろう。ずっと、一緒だって……言ったのは、あいつなのに……嘘なんだ。全部……嘘なんだ」
男の嘆きが、頭の中を木霊する。エレナの胸は、深い悲しみに締め付けられた。
あいつとは、相棒のことだろう。エレナにわかるのは、それくらいだ。男が何を思い出しているのか、何を悔いているのか。何も知らない。慰める言葉が見つからない。エレナは何も知らないから。
だから、彼を抱き締めた。
彼の悲しみを癒したいなんて、願うこと自体が烏滸がましい。それでも、願わずにはいられなかった。
そうしていると、現実が遠ざかっていく。エレナの意識は闇の渦に巻かれていく。やがて、目の前は真っ暗になった。
暗闇に、見覚えのある図形や記号が閃いた。




