Case12:見えない犯人(3)
沈黙を破ったのは、ヘンリーだった。
「――待てよ」
その声に、私とクロードは同時に顔を上げた。
「ヘンリー?」
「これまで先生は何度も『怪しい人間は見なかった』と言っていた。でも、先生が『怪しい』とは思っていないだけで、実は誰かと会っている可能性がある」
「どういうこと?」
「捜査の現場でも、たまにあるんだ。『不審な人物を見ませんでしたか』と聞くと『いいえ』と答えるのに、『誰か他にも現場を通りがかった人はいませんでしたか』とか『知り合いや顔見知りに会いませんでしたか』と聞くと、急に思い出す人が」
ヘンリーの言葉に、はっとする。
――怪しい人など見ていない。それは、教授にとって「見た」ものの中に「怪しい」と分類されるものがなかった、というだけの話だ。見たこと自体を、否定しているわけではない。
「もう一度、先生を呼び出せるか?」
クロードの問いに頷き、再びコンパスを手に取る。
「先生」
しばらくして、教授の姿が再び現れた。
『おや、まだ何か?』
「先生、質問を変えさせてください。『怪しい人物』ではなく――家を出てから、研究棟に着くまでの間に、誰かとすれ違ったり、挨拶を交わしたりはしませんでしたか?」
その質問に、教授は、あっさりと答えた。
『ああ、それなら。研究棟の少し手前ですれ違ったよ』
部屋の空気が、一気に張り詰めた。
「どんな方でしたか?」
『若い研究員だよ。木箱を抱えていた』
「木箱、ですか」
ヘンリーが手帳にペンを走らせながら聞き返す。
『ああ。布をかけていたが、大きさから見て、標本か何かを運んでいたんだろう。研究棟では、夜遅くにそういう作業をしている者もよくいるからね。特に気にも留めなかった』
その言葉に、クロードが頷いた。
「植物学や生物学の研究員が、夜間に標本を運び出すことは珍しくない。実験の都合で、時間を選べないこともあるからな」
「先生、なぜ、最初にそれを教えてくれなかったんですか?」
私がそう尋ねると、教授は少し戸惑ったように答えた。
『いや……あの研究員のことは思い浮かばなかったんだ。怪しい人間ではないし、ただの、挨拶を交わした相手だったから』
「先生、その研究員が誰か、覚えていますか」
『顔は覚えているが名前までは……』
「挨拶を交わしたとのことですが、どんな言葉を?」
教授が目を細め、記憶を手繰り寄せる。
『ええと。「遅くまでご苦労様」と。突然声をかけたからか驚いているようだったが、「あ、はい、どうも」と答えてそのまま通り過ぎていった』
「不審な様子は?」
『少し焦っているような口調だった気もするが……いや、夜遅くまで作業していれば早く帰りたいものだし、誰でもそうなるだろう』
教授は、あくまでそれを不審には思っていない様子だった。
「先生から見て、その方の様子はおかしくなかったんですね」
『まったく。むしろ、ごく普通の様子に見えたよ。研究棟の連中は、昼夜構わず出入りするからね。荷物を運んでいたって、珍しくも何ともない』
ヘンリーが少し身を乗り出した。
「先生、その研究員は、どちらに向かっていましたか。先生とすれ違った後、です」
『私が来た方角――つまり、研究棟とは反対方向だったな。ちょうど、帰るところなんだろうと思ったよ』
「先生は、その方が『最後に研究棟を出た人』だと思ったんですね。だから、その後で研究棟に入った時、『誰もいない』と思った」
『ああ、その通りだ。研究員が荷物を運び終えて帰るところだと思ったから、彼の後には、もう誰もいないはずだと考えたんだ』
「研究員は一人だったんですね?他には誰もいなかった」
ヘンリーが聞く。
『そうだな。でも別にそれはおかしなことではないと思うが』
「鍵の問題があります。記録では最終退出者はドゥーゼン氏。その後に鍵が借りられた記録はない」
「研究員は研究棟の鍵を持たない。こっそり合鍵を作ってたというわけか」
クロードがため息をつきながら言う。
「夜中に密かに作った合鍵で研究棟に入り、何か、他の人に見られては困るものを持ち出した。誰もいなくなった研究棟に誰かが戻ってくるなんて思わなかった」
「だが、先生に会ってしまった」
ヘンリーの眉間に皺が寄る。
『な……そんな……』
教授が、初めて動揺したような声を漏らした。
『では、私が挨拶を交わした、あの人物が……』
「おそらく、先生とすれ違った後、彼はもう一度研究棟に戻ったのでしょう。荷物を持っていたということは、それを持ち出すことが目的だったはずです。それなのに、なぜ戻る必要があったのか――」
ヘンリーが、考えを整理するように言葉を継ぐ。
「先生に、顔を見られてしまったからです。しかも、声までかけられた」
「目撃者として、消さなければならないと思った、ということか」
クロードが低く呟いた。
『まさか、そんな……ただの、挨拶だったのに』
教授の声には、信じられないという響きがあった。
「先生にとっては、ただの日常の一コマだった。でも、犯人にとっては違った。目撃されたという事実そのものが、彼にとって命取りに思えたんでしょう」
その言葉に、私は静かに頷いた。
教授は、嘘をついていない。「怪しい人など見ていない」というのは、正直な証言だった。ただ、教授の中で「怪しい」という言葉に結びつかなかった記憶の中にこそ、真実が隠れていた。それは、教授には「見えない」ものだった。問いの形が変わって初めて、その記憶は姿を現した。
「先生、ありがとうございます。もう少しで、真相にたどり着けそうです」
『……頼む。あの人物が誰なのか、持ち出していた物は何だったのか、突き止めてくれ』
教授の声には、静かな怒りと、悲しみが滲んでいた。
◆
数日後、ヘンリーが再びレイラの元を訪れた。
「事件は解決したよ。犯人は、生物学研究室のサイラス・ホプキンス。植物学が専門で、王立植物園から希少な薬草の種を研究用に借り受けていたが……その一部を、闇市場に横流ししていたことが判明した」
「横流し?」
「ああ。多額の借金を抱えていたようだ。あの晩は、事前に作った合鍵で研究棟に入り、希少な種で育てた植物の鉢植えを持ち出して、正面から出てきたところだった。ところが、そこでブラウン教授とすれ違い、声をかけられてしまった」
「犯行を見られた、と思い込んだのね」
「そうだ。先生はただの挨拶のつもりだったが、ホプキンスにとっては、決定的な目撃者に見えたのだろう。慌てて先生の後を追い、先生が研究棟の中に入るのを見て、気づかれないよう後についていった、と」
「それで、研究室の前で?」
「先生が部屋から出てくるのを待ち伏せしていた、と本人が供述している。とっさに、階段の上から突き飛ばした、と。そして、先生が頭から血を流し、動かなくなったのを見て、死んだと思い立ち去ったそうだ」
その話を聞きながら、教授の言葉を思い出す。
――怪しい人など見ていないよ。
教授にとっては、本当にただの日常の一コマだった。荷物を運ぶ研究員も、交わした挨拶も、何ひとつ疑う要素はなかった。だが、その何気ない記憶の中にこそ、犯人の姿が隠れていた。
「教授も、まさか自分が目撃者だったなんて、思いもしなかったでしょうね」
「本人にとっては『目撃した』という自覚すらなかったわけだから」
その言葉に、私は小さく頷いた。
降霊術は、死者の記憶をそのまま伝える術だ。でも、死者自身が「重要ではない」と判断した記憶は、聞かれ方を変えない限り、自ら語られることはない。
真実は、いつも死者の目の前にあった。ただ、それが真実だと、死者自身が気づいていなかっただけだ。
教授は、見たものを正直に語っていた。日常に紛れた記憶は、聞かれ方ひとつで、取るに足らないものにも、決定的な証言にもなる。
死者の言葉には主観や先入観が入る。死者が語る言葉と真実との間には、時にすれ違いが発生する。
それでも、その小さなすれ違いの糸をたぐり寄せていけば、いつか真実にたどり着ける。
降霊術は万能ではない。でも、無力でもない。
そのことを、また改めて実感した事件だった。
「奥様には『先生は忘れ物を取りに来たところを襲われた』と言っておいた。そしてそれとは別に、『研究室の机から奥様へのプレゼントが見つかった』と言って渡したよ」
ヘンリーがポツリと言う。やるせない気持ちが伝わってきた。
「真実を伝えないでくれてありがとう。先生の代わりにお礼を言うわ」
「俺もお世話になった先生だからな。礼には及ばないよ。それに、あのドゥーゼン氏も奥様に『忘れ物は翌朝までに検討しなければならない研究資料だった』と言ってくれていたようだ。おかげで奥様も夜中に家を出たことについて納得してくれたよ」
「あの論理で生きてる機械みたいな男が?……彼も何か思うところがあったのかもね」
そう言ってテオが淹れた紅茶を飲む。
「ところで、アイリス」
ヘンリーがいきなり本名で聞いてきた。
「ドゥーゼン氏とはどういう関係だ?親密な関係に見えたが」
いきなりの質問に、紅茶を吹き出しそうになる。
「占いの常連客よ。それ以上でも以下でもない」
「本当か?兄としてはきちんと聞いておかなければならない。何か特別な存在ではないのか?隠さなくてもいいんだぞ?」
「違う違う。クロードには彼女がいるし、あんな機械みたいな男は嫌よ」
目の端でテオを見る。テオはいつものように平然と佇んでいて表情は読めない。でもテオにだけは誤解されたくない。
「私より、ヘンリーはどうなのよ。もういい年でしょ。そろそろ身を固めたらどうなの?」
「それは今、関係ないだろう」
いつものような兄妹のやりとり。
こんな日常が送れなくなった人もいることを考えると少し胸が痛む。こうやって普通の日々を過ごせることをありがたく思いながら、ヘンリーとの不毛な言い争いはしばらく続いた。




