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Case12:見えない犯人(2)

「誰が押したのか、本当にわからないんですか?」

 念のため、もう一度尋ねる。

『ああ、本当にわからないんだ。振り返る間もなかったからね。階段から落ちた後、去っていく足音が聞こえた。そのあと意識が遠くなって……それっきりだ』


「先生、そもそも、なぜあんな夜更けに研究棟へ行ったのですか?いつもは奥様と過ごす時間のはずでしょう」

 クロードの問いに、教授は一瞬、言葉に詰まった。

『それは……その、ちょっとした用事があってね』

「ちょっとした用事とは?」

『いや、大した理由じゃないんだ。忘れ物を、取りに戻っただけで』


 教授の声が、心なしか歯切れ悪く聞こえる。


「忘れ物、ですか。何を忘れたんです?」

 ヘンリーが手帳を構えながら聞くと、教授は目を泳がせた。

『いや、それは……ちょっとしたものだよ。仕事に関わる、些細なものだ』


 その言い方に、私は思わず眉を寄せた。今までの教授の口調とは、明らかに違う。すらすらと質問に答えていたはずが、急に歯切れが悪くなっている。


「先生の所持品を調べましたが、家の鍵と研究棟および研究室の鍵しかありませんでした。犯人はその忘れ物を持ち去った可能性があります。何を忘れたのか、教えていただけませんか?」

 ヘンリーが身を乗り出して聞く。

『いや、それは、その、本当にたいしたものじゃなく……』

 

「先生」

 私は少し声のトーンを落として、教授にまっすぐ向き直った。

「先生は、何か隠してますよね?」

『な、なぜそう思うんだ』

「さっきまでは、質問にすぐ答えてくれていたのに、この質問だけ、妙に言葉を濁していますよね。知られたくない物なのかもしれませんが、事件に関係ない物であれば、口外いたしません」


 教授の霊が、あからさまにうろたえた様子を見せた。


『いや、それは……その……』

「先生」

 もう一押し、優しく促す。


『……本当のことを言うと……妻への、結婚記念日の贈り物なんだ』

「結婚記念日の、贈り物?」

 私がそう口にすると、部屋にいた全員が顔を見合わせた。

『ああ。ネックレスを、少し前に注文していてね。届いたものを、研究室の引き出しに隠しておいたんだ。それをうっかり別の書類と一緒に、鞄に入れて持ち帰ってしまってね』


「それが、何か問題だったんですか?」


『妻は、毎朝私が家を出る前に、忘れ物がないか鞄の中を確認する習慣があるんだ。几帳面な人でね。もし贈り物が鞄に入っているのを見られたら、サプライズが台無しになってしまう』


 教授の声が、少しずつ早口になっていく。


『だから、妻が寝てしまった後に、こっそり研究室へ戻って、引き出しに戻しておこうと思ったんだ。机の引き出しに戻して、すぐ帰るつもりだった。誰にも気づかれないはずだったのに……』


 しばらくの沈黙の後、最初にふぅ、と息を吐いたのはヘンリーだった。

 私も先生が何か良からぬことに関わっていたのではないかと考えていたのが杞憂だったことにホッとした。おそらくヘンリーも同じ気持ちだったのだろう。


「そういうことでしたか……」

『いやその、恥ずかしくてね。年甲斐もなく、妻に対するプレゼントだとか』

「別に恥ずかしがることじゃないでしょう。奥様思いで、素敵な話じゃないですか」

 私がそう言うと、教授は少し照れたように笑ったようだった。


『そう言ってもらえると、救われる。驚かせようと思って隠したプレゼントが原因で死んだと知られたら、妻も気に病むかもしれない……妻には、絶対に知られたくないんだが』

「もちろん、内緒にしておきます」

 ヘンリーが力強く頷く。

 クロードだけは、少し呆れたような顔をしていた。


「そんなことのために研究室に戻ったのか……」

 小さくひとりごちるクロードに澄まし顔で言い返す。

「恋愛は非論理的なものよ。夫婦愛もね」

 それを聞いたクロードは何とも言えない表情でため息をついた。



「それで、先生。研究棟に着いてからは、何かありましたか」

 気を取り直して、本題に戻る。

『研究棟に着いて、自分の鍵を使って中に入ったよ』

「中に入ってから誰かを見かけたり、どこかから物音などは聞こえませんでしたか?」


 ヘンリーが尋ねる。


『いや、何もなかったよ。研究棟には私以外、誰もいなかった』

「本当に、誰も?」

『ああ。物音もしなかったし、明かりのついていた部屋はない。廊下ももちろん明かりなどついていなかった。実際、私の研究室に灯りをつけるまで、窓から差す月明かりだけが頼りだったからね』

 教授の声には、迷いがなかった。


「研究室に着いてから、何を?」

『引き出しにネックレスを戻して……ほっと一息ついた。そのまま部屋を出て、階段を降りようとしたところで――』

「背中を押された」

『そうだ』

 沈黙が落ちる。ヘンリーが、少し考え込むような顔をした。


「研究棟の中には、誰もいなかった。でも、誰かに押された。それはつまり――」

「棟の中に、隠れていた者がいた、ということになるな」

 クロードが後を引き取るように言った。


『いや、それは……どうだろう。私が入った時は、確かに誰もいる気配はなかったんだが』

「鍵は、しっかりかかっていたんですよね?」

『ああ。間違いない。自分の鍵を使う前に確かめたからね』

「もし誰かが研究棟に忍び込んでいたとしたら、鍵をかけていないような気がするんですよね」

 ヘンリーが言う。

「ああ、なるほど。わざわざ鍵をかけるなんてことはせず、研究棟を出る時まで開けたままにするということか」

 クロードが続ける。

『ああ、確かに私もそうだったな。鍵を開けて入った後に鍵をかけるなんてことはしなかった』

「もちろん、侵入者の警戒心が強く、入ってから鍵を閉めた可能性もあります。ただ犯罪者の視点からすると侵入する場合は素早く逃げることも重要ですから、自分のこれまでの経験から言って鍵を閉めることは少ない。それに、逃げる際にも鍵は開けっぱなしにすることが多い。だとすると、先生が鍵を開けた後で入ってきた可能性が高い」

 ヘンリーがそう言うと、教授はしばし考え込んだ。


「先生、研究室の中にいる時、あるいは研究室から出た時に、物音も、気配も、本当に何も感じなかったんですか?」

 ヘンリーは念を押すように、もう一度尋ねる。

『物音が聞こえたらさすがに気づく。ただ人の気配は……研究室にプレゼントを置いた後は急いで帰ろうとしていたから、気もそぞろだった。それで気づかなかったのかもしれない。研究棟に入る時は確かに無人だったと思うんだが、その後で誰かが建物の中に入っていたとしても気づかなかった可能性はある』


 部屋には沈黙が流れた。

 ヘンリーもクロードも考え込んでいる。そして私も。

 その沈黙を破ったのはテオだった。


「すみません、私からもよろしいでしょうか」

 部屋の片隅にいたテオが手を挙げる。

「何かしら」

「まず、これは計画的な殺人ではなく、突発的なものだと思います」

「なぜ?」

 ヘンリーもクロードもテオをじっと見つめる。


「事件当日の教授の行動は、予期できるものではありません。家に帰った後でまた外出するなど、誰もわからない」

「だから計画的なものではない、と?」

 ヘンリーが問う。

「少なくとも、教授を狙ったわけではないと考えます。そうであるとするなら、一番可能性が高いのは、教授が何か犯人にとって都合の悪い場面を目撃し、口封じされたということかと」

「なるほど。筋は通っている」

 クロードも頷く。


「しかも、犯人は慌てていた、あるいは時間がなかったのかと思います」

「それはなぜ?」

「階段から突き落とすという手段です。犯人は刃物や鈍器などを持っておらず、用意する暇もなかった」

「先生に何かを見られて、あるいは見られたと思い込んで慌てて先生の後を追ったということか」

 ヘンリーが補足する。

 

 テオはまた続ける。

「そしてこれは、殺人に慣れた者の犯行ではない。何かしらの犯罪に関わっていたとしても、少なくとも殺人は初めてだと思います」

「どうして?」

「階段から落ちた教授にはまだ意識があったのに、そのまま立ち去っているからです。殺人に慣れた者であれば、死んだことを確認する。あるいは、とどめを刺す。それをしていないのは素人だからです」


 テオの分析は的確だけど、犯人の――殺人を犯す側の視点だ。

 ヘンリーもドン引きしているけれど、テオの意見は参考になったようだ。


「ということは、先生。先生は何かを目撃しているはずです。思い出していただけませんか?」


『いや、そう言われても……そんな犯罪行為を見ていたら私は逃げていたと思うよ。何も、見ていないし、誰もいなかった』

 

「もうひとつ、よろしいでしょうか」

 テオが手を挙げる。次は何を言うのか、少し恐ろしく思いながら次の言葉を待つ。

「教授が目撃したのは研究棟の中とは限りません。家から研究棟に行くまでの間で何かを目撃してはいないでしょうか」

「確かに……道中で何かを目撃した可能性はあるな。そして先生の後をつけたと考えるのは自然だ」

 ヘンリーも同意する。


『それでも答えは同じだよ。犯罪を犯しているような場面も、怪しい人間も見ていないんだ。それは確かだ』


 その言葉を最後に、それ以上手がかりらしいものは出てこなかった。


「先生、ありがとうございます。もう少し、こちらで調べてみます。また、お呼びするかもしれません」


『頼んだよ。……ああ、それと』


 教授が、ふと表情を和らげた。


『妻には、先に逝ってしまってすまないと伝えてもらえるかい』

「必ず、お伝えします」

 教授の姿が、少しずつ薄れていく。その表情には、穏やかな信頼があった。


 教授の姿が完全に消えると、部屋には重い沈黙が落ちた。


「何も見ていないし、誰もいなかった、か」

 クロードが呟く。

 私たちは、しばらく無言で顔を見合わせていた。手がかりはあるはずなのに、どこかピースが噛み合っていない。そんなもどかしさが、部屋に立ち込めていた。

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