幕間 二人の距離
「あなたの悪意が人を殺した」
いつもとは違う、冷ややかな声が室内に重く響く。
フィオナという令嬢に向ける視線も鋭い。
俺は部屋の隅に控えたまま、その光景をただ見つめていた。
レイラ様の言葉は、いつも死者と生者の間に立つ者として、公平で、どこか温かみを含んでいる。悲しみに寄り添い、時には厳しさも見せるが、それでも根底には、人の弱さへの理解があった。
だが今日の彼女の声には、その理解の欠片も感じられない。
――何かが、いつもと違う。
影として生きてきた時間の中で、俺は人の些細な変化を見逃さないよう訓練されてきた。声の震え、視線の動き、呼吸のわずかな乱れ。それらを読み取ることは、任務のための技術だったはずだ。
なのに今、その技術で拾い上げてしまったのは、任務とは何の関係もない、レイラ様の小さな綻びだった。
フィオナが部屋を出ていった後も、レイラ様はしばらく窓の外を見つめたまま動かなかった。夕暮れの光が、彼女の横顔を橙色に染めている。
「レイラ様」
声をかけると、レイラ様は少し驚いたように振り返った。
「珍しいですね。あそこまで厳しい言葉をかけられるのは」
我ながら、踏み込みすぎた物言いだったかもしれない。だが、聞かずにはいられなかった。
「……そうね」
レイラ様は短く答えただけだった。いつもなら、もう少し多くを語ってくれる。今日のことについて、フィオナについて、あるいは自分の中の迷いについて。
だが今は、そのどれもが、薄い膜の向こうに隠されているようだった。
冷めた紅茶に口をつけ、窓の外に視線を移すレイラ様の横顔をじっと見つめた。
何かを堪えている。何かを、押し込めている。
それが何なのか知りたいと思う自分に気づいて、少し戸惑った。
任務であれば、対象の心情を読み解くことは当然の作業だった。だがこれは任務ではない。レイラ様の心の内を知りたいと思うこの感情に、名前をつけることができない。
影として育てられた時間の中で多くのことを学んだ。体術、暗殺術、周辺国の言語、マナー、ダンス。だが、誰かを気にかけるということが、親愛なのか、忠誠なのか、それとも別の何かなのか――その見分け方だけは、誰も教えてくれなかった。
「今日は、もうお休みになった方がいいかもしれません。帰るなら送って行きますよ」
当たり障りのない言葉しか、出てこなかった。本当は、もっと別の言葉をかけたかった気がする。だが、それがどんな言葉なのか自分でもわからなかった。
「……そうね、お願い」
レイラ様は小さく頷き、冷めた紅茶を飲み干した。その仕草には、いつもの快活さがなかった。
◆
それから数日、レイラ様の様子は、少しずつ元に戻っていくように見えた。俺に軽口を叩き、依頼人との会話でも笑みを見せる。表面上は、いつも通りのレイラ様だった。
だが、気づいていた。 夕方、仕事の合間にふと訪れる沈黙の時間。窓の外を見つめる横顔に、時折よぎる翳り。
それらは、他の誰も気に留めないほどの、些細な変化だった。
だが俺にとっては、見逃せるものではなかった。
「レイラ様」
ある日の夕刻、片付けの手を止めて声をかけた。
「先日のことですが、まだ何か、気にかかっていることが?」
レイラ様は一瞬、手にしていたカップを持つ手を止めた。だがすぐに、いつもの調子で笑ってみせる。
「先日のことって?」
「クッキーの件です」
「別に、何も。もう終わったことよ」
「ですが」
「テオ」
柔らかいが、それ以上踏み込ませない響きがあった。
「心配してくれるのは嬉しいけれど、大丈夫だから」
その笑顔は、いつものレイラ様のものと、ほとんど変わらないように見えた。だが、ほんの少しだけ――目の奥に、何かを隠すような色があるように感じられた。
それ以上、何も聞けなかった。
主従の関係で許される踏み込みの範囲は、これくらいが限度なのだろう。だが、その「限度」というものが、今の俺にはひどく窮屈に感じられた。
もっと知りたい。もっと近づきたい。
そう思う自分に、戸惑う。
護衛としての職務であれば、対象を守るために必要な情報は、遠慮なく引き出すべきだと教えられてきた。だが今、レイラ様に対して抱いているこの衝動は、明らかにそれとは違う種類のものだった。
知りたいのは、彼女を守るためだけではない。ただ、彼女という人間そのものを、もっと知りたいと思っている。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥に小さな痛みのようなものが走った。名前のつかない痛みだった。
ふと、イズのことを思い出した。
幼い頃から共に訓練を受け、互いの弱さも強さも知り尽くした、影としての同志。
そして、たったひとりの大切な存在。
イズが傍にいれば安心できたし、イズのためなら何でもできると思っていた。そしてイズが死んだ時、俺だけでこの世界に生きている意味はないと感じた。
あれもまた、大切な感情だったはずだ。
だが、今こうしてレイラ様に対して抱いているものは、あの頃感じていたものと、どこか質が違う気がする。
イズに対しては、迷うことがなかった。信頼も、大切さも、輪郭がはっきりしていた。互いに命を預け合う関係の中で、育まれた確かな絆。
だが、レイラ様に対する感情には、輪郭がない。
彼女が笑えば、自分も安堵する。彼女が何かを隠していると、落ち着かない。彼女の横顔を目で追ってしまい、その理由を説明できない。
これは、イズに対して抱いていたものと、同じなのだろうか。それとも、まったく別の何かなのだろうか。
俺は今日一日のレイラ様の様子を、頭の中で何度も反芻していた。当たり障りのない笑顔。柔らかいが拒絶を含んだ言葉。踏み込ませない距離。
それらの断片が、うまく像を結ばない。
ただひとつ、確かなことがあった。
レイラ様が何かを一人で抱え込んでいる。そのことに、自分がこれほど落ち着かない気持ちになるとは、思ってもみなかった。
主従の関係というだけなら、こんな感情は湧いてこないはずだ。護衛としての責務というだけなら、こんなに胸の奥がざわつくはずがない。
では、これは、何なのだろう。
感情に名前をつける訓練など、受けたことがない。敵の意図を読み、状況を分析し、最適な行動を選択する。それが俺の生きてきた世界だった。だが、自分自身の胸の内にあるものを分析しようとすると、いつも同じところで行き詰まってしまう。
◆
答えの出ない問いを抱えたまま、レイラ様を家に送るために後片付けをする。
夕闇に沈んでいく王都の街並みを窓越しに眺めるレイラ様の横顔を、もう一度だけ盗み見て――そんな自分に、また戸惑った。
いつからだろう。彼女の横顔を、こんなにも目で追うようになったのは。
そしてなぜ、彼女が壁を作るたびに、こんなにも胸が締めつけられるのだろう。
その問いの答えにはまだ、辿り着けずにいた。




