Case10:犬猿の仲(3)
『そうだな……五年くらいか』
「え?」
『ほとぼりが冷めるまでの期間だよ。どうせお前は誰とも結婚しないだろう?あの子はお前の「弟」だ。冷静に考えたら、血の繋がった、唯一の血縁者である弟が、市井で暮らし平民として育つなんて父に顔向けができない――とでもなんとでも言って、呼び寄せればいいのではないか?』
「それは……」
「養子として迎えるのもいいだろう。年の離れた弟を養子にするくらい、別におかしな話ではない。五年後ならまだあの子も幼いから、あの子を呼び寄せるのなら、母親も付いてくるだろう』
「ですが……」
『悪い噂は立つかもしれんな。セシリアは父も息子も誑かす悪女と言われるかもしれないし、お前はさしずめ悪女に騙されるボンクラか』
「そうですね」
ルーカスは苦笑を漏らした。それは、これまでの張り詰めた表情とは違う、少しだけ肩の力の抜けた笑みだった。
「しかし何を言われたとしても――」
『しかし何を言われたとしても――』
同じ言葉を、父と息子がほとんど同時に口にした。それに気づいたのか、ルーカスの目が微かに揺れる。
「構いません。何を言われてもびくともしない基盤を、五年のうちに作ります」
ルーカスの声には、これまでにない強い決意が滲んでいた。
「これまでは、父上の跡を継いだというだけで、周囲から一目置かれていました。でも、これからは違います。自分自身の力で、誰にも文句を言わせないだけの実績を積みます」
『そうだ。それでいい。誰に何を言われても気にならないくらいの――いや、誰にも何も言わせないくらいの存在になれ。お前ならできるし、お前にしかできない』
「はい」
「五年間、具体的に何をすればいいでしょうか」
ルーカスが真剣な表情で問う。
『それは自分で考えろ。私が全部教えてしまっては、お前のためにならない。ただ、一つだけ言っておくなら――信頼というのは、金を積んでも買えるものではない。地道な仕事の積み重ねでしか、手に入らないものだ』
「肝に銘じます」
『いい顔だ。それなら安心してあの子たちを任せられるが……私はもう少し、セシリアとあの子を見守ってから神の国に行くよ』
「わかりました」
『お前もセシリアも幸せになっていいんだからな』
「ありがとうございます」
その言葉を伝え終えると、前男爵の姿が、ふっと薄れていった。最後まで、あの豪快な笑みを浮かべたままだった気がする。
「父上は……?」
「消えられました。でも、まだ完全に神の国に渡られたわけではないようです。しばらくは、セシリアさんとお子さんを見守られるおつもりのようですよ」
「そうですか……」
ルーカスは、深く息を吐いた。長年張り詰めていた何かが、ようやく緩んだような、そんな表情だった。ロウソクの薄明かりが、その横顔をわずかに照らしている。
「レイラさん、今日は本当にありがとうございました。父の本心を聞けて、少し救われた気がします」
「いえ、こちらこそ。良い時間を過ごさせていただきました」
ルーカスは深々と頭を下げると、静かに部屋を後にした。その足取りは、来た時よりもいくらか軽く見えた。
◆
ルーカスが帰った後、私はテオと二人、静かに部屋に残っていた。
「奥様と息子さんがそのような関係だと知っていたとは……」
テオが感慨深げに言う。
「本当にね。前男爵様、只者じゃなかったわ」
「ヴィクターという方の証文まで押さえていたあたり、商人としても一流だったのでしょうね」
「息子への愛情も、一流だったと思うわ」
私は小さく笑った。
「普通なら、後妻と息子の不貞なんて、怒り狂ってもおかしくないのに。それを全部わかった上で、二人の幸せを願っていたんだから」
「レイラ様は、どう思われますか。あの結末について」
テオの問いに、私はしばらく考えてから答えた。
「複雑よね。手放しに祝福できる話でもないと思う。でも、誰も嘘に苦しみ続けることなく、それぞれが納得できる形に落ち着いたのなら、それでいいんじゃないかしら」
前男爵の「愛していたが、少し違うのかもしれない」という言葉が、今も耳に残っている。庇護欲なのか、初恋の女性への想いの延長なのか、本人にもうまく説明できない感情だったのだろう。
「人の愛情の形って、いつも綺麗に言葉にできるものばかりじゃないのね」
「そうですね」
テオが静かに相槌を打つ。その横顔を見ながら、私はふと思う。テオもまた、イズへのまだ言葉にならない何かを抱えているのかもしれない。
私はそう言いながら、冷めた紅茶に口をつけた。
「五年後、彼の子がこちらに戻って来る時、どんな顔をしているのかしらね」
「きっと、幸せそうな顔をしているのではないでしょうか」
テオの言葉に、私は小さく頷いた。
「そうね。そうであってほしいわ」
人の家族の形は、一つではない。誰かに後ろ指を差されるかもしれない選択でも、当人たちが納得し、支え合っていけるのなら、それでいいのかもしれない。
◆
あの日から五年後――
ルーカス・アシュフォードは書斎で手紙を書いていた。
『レイラ様
ご無沙汰しております。
五年前に父を降霊していただいたルーカス・アシュフォードです。
あの日から五年、ようやく家族を屋敷に迎え入れることができました。
書類上は弟であったエドガーを、正式に養子とする手続きを済ませ、先月から共に暮らしています。
この五年間、商売の基盤を固めることに全力を注ぎました。周囲からの信頼を得るため、これまで以上に誠実な取引を心がけ、時には損を承知で困っている取引先を助けたこともあります。
父の教えを思い出しながら、地道な積み重ねを続けた結果、おかげさまで当家の事業は以前にも増して発展し、多少の悪い噂が立ったところで揺らがないだけの信頼を、周囲から得られるようになったと思います。
エドガーは、父にそっくりの快活な性格に育っています。人懐っこく、初めて会う使用人たちにもすぐに懐いてしまうほどで、屋敷の雰囲気も随分と明るくなりました。
エドガーの母、セシリアもこの屋敷に戻ってきました。父の代からいる使用人は、もちろんセシリアのことも知っています。
私はセシリアとは、父が生きていた頃から距離を取っていました。最初は、自分の親と同じくらいの父に嫁いだセシリアへの嫌悪感から。
その後、「金目当ての後妻」と言うには実に慎ましく暮らし、使用人たちにも気さくに接する彼女を見て、自分の先入観を恥じ入ったりもしました。
そうして徐々にセシリアに惹かれていく気持ちと、父の妻である事実の狭間で揺れ動き、屋敷を出て暮らすことを考え始めた時、セシリアもまた同じように苦しんでいることを知りました。
お互いの気持ちを確かめ合った後で、私は屋敷を出て一人で暮らすことにしました。セシリアはたびたび訪ねてくるようになりましたが、表向きは仲の悪い後妻と息子として通していました。
セシリアが身篭っていることを知った時、私たちは父に正直に話すつもりでいました。
しかしその矢先に、父が事故で亡くなったのです。
父の死後は相続問題で激しく対立しました。
いえ、激しく対立しているように装いました。私たちの仲を誰にも知られてはならない、二人が通じていることを気づかれてはならない。その一心で、お互いに醜く罵りあったこともあります。
父の財産の半分以上をセシリアに渡し、人を雇って隣国に送り届け、そのまま彼女は隣国でエドガーを産んで五年間育ててきました。
今ではセシリアも、ようやく肩の荷が下りたような、穏やかな表情を見せてくれるようになりました。この五年間、彼女なりに、隣国で息を潜めるように暮らしながら、多くの不安を抱えていたのだと思います。それでもエドガーを立派に育て上げてくれたことに、感謝してもしきれません。
もちろん、養子縁組の話が持ち上がった際には、予想通り、いくらかの噂が立ちました。それでも、これまで積み重ねてきた実績のおかげか、大きな騒ぎにはならずに済んでいます。
エドガーとは養子縁組をしましたが、セシリアとは婚姻を結んでいません。傍目からは複雑な家族関係に見えていることでしょう。
実態はとても単純な関係ではあるのですが、私が実の父親だということはエドガーには知らせるつもりはありません。
あの日、父の言葉を伝えていただいたこと、そして背中を押していただいたこと、心より感謝しております。もしあの時、レイラ様に出会っていなければ、私はきっと、父への罪悪感を抱えたまま、セシリアともエドガーとも距離を置いた人生を送っていたことでしょう。
いつか、エドガーを連れてご挨拶に伺えればと思っております。
ルーカス・アシュフォード』
書き終えて、便箋を封筒に入れ、封をする。その時、書斎のドアが開いた。
「とうさま!おちゃのじかんです!」
メイドを従えたエドガーが元気な声を上げながら入ってくる。
「そうか、教えてくれてありがとう。一緒にお茶を飲もうか」
「はい!」
ニコニコとソファーに座るエドガーの頭を撫でる。
自分が子供の頃は父親とそっくりな顔が嫌いだったが、今は父親に似ていて本当に良かったと心から思う。
エドガーもまた「父親似」だから――
「あら、エドガー、ここにいたの?お父様のお仕事を邪魔してはダメよ」
「かあさま!」
「いいんだよ。仕事はひと段落ついていたから。セシリアも一緒にお茶にしよう」
父上はまだ、エドガーのことを見守っているだろうか。それとも神の国に渡ったのだろうか。
またレイラさんに聞けば教えてくれるだろうか。
父上、セシリアとエドガーは私が守ります。どうか、安心してください。
二人の笑顔を見ながら、心の中でそう誓った。




