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Case10:犬猿の仲(2)

「わかった!わかったから!本当にすまんかった!」


 そう言って、ヴィクターは逃げるように部屋を後にした。慌ただしい足音が遠ざかっていく。玄関の扉が乱暴に閉まる音まで聞こえた気がした。


 部屋には、私とテオとルーカス、そしてまだこの場に留まっている前男爵の気配だけが残された。静けさが戻ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように、部屋の空気が張り詰めたものに変わる。


『ルーカス、お前に頼みがある』


 前男爵が静かに語る。

 

「……父上……その……」


 ルーカスの声が、途端に硬くなる。何かを言おうとして、言えずに口を噤む様子が伝わってくる。膝の上の手が、白くなるほど強く握りしめられていた。


『何も言わなくていい。わかっている。私はいい父親ではなかったからな。お前とセシリアのことも知っていた』


「あ……」


 ルーカスが息を呑む。私も、思わず言葉を失った。予想外の展開に、部屋の空気が一段と重くなる。


「父上……申し訳ありません……」


 ルーカスが深く頭を垂れる。その肩が、小さく震えていた。長年抱え続けてきた罪悪感が、今にも溢れ出しそうになっているのが見て取れた。


「父上……私は、卑怯者です。父上を裏切っておきながら、それを隠すために、セシリアとあれほど激しく対立して見せて」


 ルーカスの声には、これまで押し殺してきたであろう罪悪感が滲んでいた。


「セシリアを憎んでいたわけでもないのに、周囲には憎み合っているように見せかけて。父上が亡くなってすぐの頃は、本当に、自分がどれほど浅ましいことをしているのか、わからなくなりそうでした」


『いいんだ。私はセシリアのことを愛していたが……いや、愛していたと言っても、少し違うのかもしれない』


 前男爵の声には、これまでの豪快さとは違う、静かな響きがあった。


『セシリアは私の初恋の女性の娘でな……。両親を亡くした彼女を放っておくことができなかったんだ。お前も聞いているだろうが、セシリアの母の死を聞いて駆けつけた私が見たのは、たちの悪い親戚に囲い込まれ、借金を押し付けられて売られそうになっていたところだった』

 

「はい。聞いています。父上がいなければ、苦界に身を沈めていただろう、と。」

 

『セシリアを救い出すため、半ば無理やり結婚という形を取った。セシリアも納得済みで、いつでも離縁に応じると言う約束だった。アイツの言う通り、病気のせいでセシリアを抱いたことはない。それは誰よりもお前が知っているだろう』


「……はい」


 ルーカスは静かに頷いた。その表情には、長年抱えてきた謎がようやく解けたような、複雑な安堵が滲んでいた。


『お前とセシリアのことを知って後悔したよ。そんなことなら、最初からお前の嫁に迎えればよかった。セシリアを引き取ってもお前に迷惑をかけないようにしたつもりだったんだが……』


「いえ、父上。父上の妻となり、書類上とはいえ私の母となった人に対して邪な感情を抱いてしまったことは、申し開きもできません」


『いやぁ、親子で女性の好みが同じだとは思わなかった』


 前男爵はそう言ってまた豪快に笑った。


『ただ、一応知っておいてもらいたい。私が好きだったのはセシリアの母でセシリアではない。お前が私に引け目を感じることはないのだよ』


「ありがとうございます」


『私が死んでも、お前がセシリアを幸せにしてくれると思っていた。だから二人が私の死後に対立してにらみ合い、罵り合っているのを見て、腰を抜かしたわ。ガハハ』


 その笑い声には、複雑な感慨が滲んでいた。


「それは……」


『セシリアに子どもができたからだな』


「……はい」


『私が死んで、お前たちが仲良くしていて、そして子どもが生まれれば、産み月からの逆算で、私が死ぬ前からそういう関係だったという「不名誉な噂」が流れるからな。私から継いだ商売にも影響が出るだろう』


「そう……考えました」


『正解だ。それでいい。しかしなぜ隣国に行かせた?近くに置いておけば良かっただろう』


「生まれてくる子が……誰に似るかわからなかったからです。私は父上に顔が似ているとはいえ、髪も目も母譲りの色です。父上の色でもセシリアの色でもなく、私の色で生まれてしまった場合、誰かが気づいてしまうかもしれない、と」


『あぁ、なるほど。しかし幸いにして瞳はセシリアの色だ。髪もまだ生え揃ってないが、セシリアの色ではないかな』


「はい」


『そして顔立ちは、お前の赤ん坊の頃にそっくりだ』


「はい」


 その一言一言のやり取りを伝えながら、私は静かに二人の会話を見守っていた。父と息子の間で交わされる、あまりにも重く、そしてどこか温かい対話だった。降霊の仕事を始めて何度も様々な親子の情を見てきたが、これほど複雑に絡み合った愛情の形は珍しい、と思う。

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